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父の話

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父は何も語らなかったが、多分語るに足る人生を生きていた
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#養子

台風とルーツと

台風とルーツと

今回の台風で被害が出たということで、宮崎市の佐土原町の映像がニュースで流れていた。被害に遭われた方には、一刻も早い復旧をお祈りする。

ところで佐土原は「さどわら」と読む。

なぜこのニュースに反応したかというと、佐土原は、わたしの父が中学の時に養子に出された先の苗字であるからだ。
父親の人生については、noteを始めた頃にまとまった文章を書き、マガジンにまとめてある。

父は、鹿児島出身の立志伝

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父の話(7)

父の話(7)

父は宮崎の泉ヶ丘高校という、そこそこ優秀な学校に入学した。
在学中は演劇部、さすがに大学までは行かせてもらえず、、卒業後は郵便局員となった。

当時の郵政職員は、入局にあたり郵政研修所と言われる施設で教育を受けたのだが、生前、父はこの研修所を最終学歴だと言い張っていた。
明らかにおかしな言い分なのだが、それが父のプライドだったのかも知れない。多分父は大学に進みたかったのだ。
内心忸怩たるものがあっ

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父の話(6)

父の話(6)

父は酔うとたまに九州弁を話した。
望まぬことではあったが、東京の小学生も、少しずつ鹿児島での暮らしにも慣れていったのだと思う。
そういえば酒も芋焼酎を好んだ。
後述するが、成人してすぐに九州から出ていったにもかかわらず、九州人としてのアイデンティティは育んでいたようだ。

ともかく父は、中学まではなんとか祖父の庇護を受けていた。

ところが父を鹿児島に呼んで5年もすると、祖父はまた彼を養子に出すと

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父の話(5)

父の話(5)

さすがの祖父も、いつまでも子どもをほったらかしというわけにいかなかったのだろう、1年ほどで父は祖父のいた鹿児島に引き取られた。
小さな畑をやってその日暮らしをしていたらしい。
祖父はそこからもう東京にもどることはなく、実業家として再起することもなかった。

この時、父は小学校の5年かそこらであったわけだが、東京のお坊ちゃんが、九州、鹿児島の財部町という、僻地にやって来て、その文化的ギャップは、想像

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父の話(4)

父の話(4)

子どものころ父に連れられて、渋谷駅からしばらく歩いたところに、Uさんというお婆さんを訪ねたことがある。
あれはいま思うと、松濤あたりだったろうか。
Uさんはにこにこと歓迎してくれて、外皮を剥いたまま、ガビガビに乾いた蜜柑をすすめてくれた。

東京で没落した祖父は、結局故郷の鹿児島に戻る。
そのさい別宅の子どもたちは、ある者は養子に出され、ある者は他人に預けられたりしたらしい。

兄弟姉妹は離散した

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