我ら一族、鉄の結束を誇る (味噌田楽が鎹)
串に刺したお豆腐に甘辛い赤味噌をかけ、山椒の粉をふって食べる味噌田楽は口に入れた瞬間にもう美味しい。
里芋もほくほくしてねっとりした食感がたまらない。玉ねぎと豚肉を交互に刺したねぎまも食べ応えがあって最高だ。
定食としてついてくるちょっと塩気のある菜飯もまた良い。行儀は悪いが田楽の味噌を菜飯にちょっとつけて食べると味噌の風味が増す。
祖父母と一緒に食べに行くこの味噌田楽の定食が、私も母もとても好きだ。
母なぞ私が妊娠した時につわりが酷くて他の食べ物を受け付けず、こればかり食べていたという。
そして田楽好きは母や祖父母や私だけではない。
例えば子供の入学式、怪我や病気で入院、遠方で知り合った友達が来る、結婚、妊娠、就職、離婚……等々、何かあれば親戚たちは祖父へ連絡をしてくる。
祝い(もしくは慰めの)田楽を期待して。
そのたび祖父は張り切って、
「よし田楽でお祝いだ!」
「きっと気落ちしてるだろうから田楽だ!」
「つわりが大丈夫なら田楽で栄養つけろ!」
と、行きつけの田楽屋を予約する。
賑やかなことが大好きな祖父母は、近隣に住む他の親戚たちも誘って、時には自家用車では乗り切れずタクシーを何台も呼んで田楽屋へ繰り出すのだった。
癌で祖父が亡くなったことでこの集まりも途絶えるかと思ったが、祖母の指揮のもと、頻度は減ったものの田楽屋に集まることは変わらなかった。
そう。我が一族は田楽によって鉄の結束を誇っていたのである。
しかしまたも我らを揺るがす、団楽屋の大将の病死と閉店という大事件が起きてしまう。
これで親戚付き合いが希薄になるかと思いきや、「田楽屋が無いのなら探せばいい」と奮起したのが祖父から田楽の英才教育を受けてきた子供二人であった。
高齢の祖母が骨折してから生活の手助けをするために帰省していた母と、仕事の関係で祖母と同居していた伯父である。
美味しい田楽屋を求めて母がネットで集めた情報をもとに、営業職の伯父が仕事の隙間時間に車をかっ飛ばし偵察に行く。さすが兄妹、阿吽の呼吸。
どこでもできる仕事のおかげで母についてきて手伝いをしていた孫の私も何かしらの手伝いを、と思ったがそんな隙は微塵もなかった。
そしてついに祖母の家から車で一時間半ほどかかる観光地に、理想の田楽屋を見つけたのである。
ほどよく晴れた冬のお昼、伯父の車で母と私と祖母を乗せて食べに行こうと満を持してうなずき合った。
朝食は控えめにしたおかげですでに腹の虫が大騒ぎしている。
いざ、新たな田楽屋さんに四人分の予約をしようとスマホを持ち上げたところで、「私はやめとくわ」と、少し眉尻を下げて祖母が言った。
「どうして? 久しぶりの田楽だよ」
首を傾げた私に、祖母は目をそらしながら口先をもごもごと動かした。
「車で遠いところはしんどいし、お腹もそうすいてないし……」
ダイニングテーブルを布巾でちょいちょいと拭きながら祖母は、私と同じように首を傾げる伯父と母をちらりとうかがい、すんと鼻を鳴らした。
「あんまり、田楽好きじゃないし」
祖母の声は聞こえたけれど、意味がわからなかった。
家の外で車の通りすぎる音も、子供の声も、小鳥の歌声も、私たちの耳の上をサラサラと流れて消えていく。
小鳥の鳴き声の意味がわからないと思ったのは生まれて初めての体験で、それくらい衝撃的なことだった。
私、母、伯父の「え?」が三つぶん重なると、祖母は「そういうことだから」とうなずいた。
「三人で楽しんできてちょうだい」
私たちの顔を順繰りにしっかりと見た祖母は、とても晴れ晴れとした顔だった。
少し堅めのお豆腐にかかった味噌の少し焦げた香ばしい匂い、からしのピリリとしたアクセント、菜飯の菜っ葉の爽やかな青い香り……。
天地がひっくり返ったかのような衝撃を受けても私たちはその日、新しい田楽屋に行った。
その店の田楽は、田楽には一家言ある親戚連中の舌をうならせるほど美味しかったので、それ以降も「何かあれば、何もなくとも田楽」は変わらず続いた。
そして私たちは祖母が実は田楽が苦手であったことを、ついぞ彼らに言えずにいた。
田楽を愛する彼らに水を差すことができないまま数年経ち、癌を発症した祖母は眠るように息を引き取った。
祖父が亡くなった時以上の喪失感に、私は目が溶けるかと思うくらい泣いた。
〝人間は二度死ぬ〟とよく言うが、そのうち高齢の親戚から〝私のおばあちゃんち〟を知る人たちもいなくなり、伯父も消え、母も亡くなり、私も死んで、〝おばあちゃんち〟も〝おばあちゃんちであった事〟も知る人が誰もいなくなってしまったら、地球上に私たちは存在しなかったことになってしまう。
いったいこの先の未来で誰が、この世にちょっと田楽が好きすぎるだけの普通の人たちがいたことを語り継いでくれるというのか。
大好きな祖母がもうこの世にいないことも悲しかったが、押し寄せてくる虚無感がつらかった。
そして迎えた初七日である。
精進落としの席で向かいに座った大叔母がしんみりと「あいにくの雨だったけど」と呟いた。
「今こうやってみんなで賑やかにしているのを見ておばあさんも喜んでるわよ、きっと」
大叔母は祖母によく似た目尻を下げて言う。「姉も」と言わずに「おばあさんも」と、おばあちゃん子の私の気持ちに寄り添ってくれたことが嬉しくて、私は泣きそうになりながらうなずいた。
「心残りと言えば、田楽を食べずじまいだったことかしら」
大叔母が自分のことのように残念そうに言ったのを皮切りに、周りにいた親戚たちが大叔母と同じように、無念さあふれる表情で口々に同意した。
「あの人は本当に田楽が好きだったから」
「食欲も落ちていたみたいだし、さぞかし残念だったろう」
「お見舞いに田楽をと思ったんだけど、店が持ち帰りはしてないっていうから泣く泣くあきらめたのよねえ」
いや、あの……と、私の躊躇を置いて親戚たちの口は田楽話でなめらかに加速していく。
祖母が田楽を苦手としていたことを、言うべきか……言わざるべきか。
ちらりと斜め向かいの母と少し遠くにいる伯父を見れば、二人とも私と同じような顔で甘エビの刺身を見つめている。
酒も入った親戚たちの田楽話が進むにつれ顔色が悪くなっていく私に、大叔母がはてなと首を傾げた。
私は白状するなら今だと思って、「祖母は、実は田楽が苦手だったのだ」と、恐る恐る口を開いた。
妙に声が席に響いた気がする。
母と伯父が一心不乱に見つめていた甘エビからパッと視線を引き剥がしてこちらを向いた。
私は逆に、グラスの中で空気の粒がじわじわと昇っていくジンジャーエールの金色に視線を固定した。
初めて祖母から「あんまり、田楽好きじゃないし」と聞かされた私たちのように、何を言われたのかわからない、と言った感じで親戚たちは少しだけ首を傾げた。さらに目を見開いて、ぽかんと口を開け、その歯の隙間から「え?」と短く声が漏れた。
ジンジャーエールの泡が一粒、グラスから剥がれて昇っていった。
その一拍ぶんの空白のあとに、彼らの口から今度は「えー!」と悲鳴が上がった。
精進落としの席が揺れた。
みんなが口々に祖母と田楽屋に行った思い出を話し出す。
そう言えば豆腐はいつも人にあげていた、とか。
俺たちばかり食べていて彼女はそれをにこにこ見ていただけの気がする、とか。
ねぎまを串から外して豚だけ食べていたような気がする、とか。
首をひねり、思い出の中の田楽屋の祖母の様子と私が言った衝撃の真実を照らし合わせて、みんなが喧々囂々、お酒の朱よりさらに顔を赤くして、私が生まれる前のエピソードまでそれぞれが引っ張り出し祖母の思い出を山ほどテーブルの上に積み上げ出した。
私はそれを見て笑ってしまった。
母も、伯父も笑っていた。
最初は真剣な顔をしていた親戚たちも、それぞれ頬をゆるませて、ちょっと目尻に涙までにじませて笑っていた。
きっとこれから親戚たちが集まることも少なくなるだろう。
祖母の家という拠点を失い、もしかしたらもう田楽をみんなで食べにいくこともないかもしれない。
もしかしたらこれが“田楽”にまつわる最後の思い出になるかもしれないけれど、こんなにも賑やかでこんなにも騒がしく、笑い声しか聞こえない初七日での記憶が最後なら、「良いか」と思った。
祖母を恋しいと思う気持ちは変わらないけれど、いつの間にか虚無感は洗い流されて、私は「おばあちゃんと田楽」の思い出話に花を咲かせるため親戚たちに交じった。