教科書を閉じて始める算数授業:学びを自分たちでつくりだす楽しさを【5年:小数のかけ算・わり算より】
毎日どの教科も教えなくてはいけない小学校の先生。基本的に1年で1回しかしない授業を繰り返すため、1回のための準備を毎日することになります。準備が終わらないのに、朝、子どもたちが登校してくる時間になってしまって不安な状況で授業をすることに…。正直、大変だなと感じることもあります。
私が初任者だった時、夜遅くまで授業の準備をしていて、気がつけばソファーで寝ていました。その度に「またやってしまった…!」そして、次に続くのは「まだ授業の準備が終わっていない…!」でした。
その当時のことを振り返ると、「この内容を教えなくてはいけない。」「教え忘れがあったらどうしよう。」という思いも強くありました。しかし、一番の心配事は「子どもが楽しめる授業ができるのか。」でした。
今回、私がイメージしているのは、毎日の授業に必死になっている時期が少し落ち着いてきた頃以降の算数の授業についてです。授業の準備も少し慣れ、授業中の子どもたちとのやりとりもできるようになってきた。教師としては少し安定してきたけれど、もっと子どもたちと楽しく何かできるんじゃないか。そんな段階です。
もし、そういう状況の先生がいたとしたら、一緒に取り組みたいのが、
「教科書を閉じて始める算数授業」です。
大学生や院生だった頃、算数教育を専門にしていた先生方との出会いもあり、私は「教科書を閉じて」算数の授業を行っていました。しかし、実習先や自分の勤務校、他の自治体への授業協力と、様々な先生方の授業を参観する経験から、私の当たり前が当たり前ではないことに気付きました。
これは「どちらが正しいか」という話ではありません。
「教科書を閉じて始める算数授業」によって、子どもにどんなメッセージを伝え、どんな学びにつながるのかをお伝えしたいと思います。
そもそも教科書は何のためにある?
まず、教科書は文部科学省より「主たる教材」として定められているものです。文部科学省のHPより引用します。
大前提として、私はこの内容を放棄するスタンスではありません。これまで書いている記事の通り、教科書をベースにして子どもが楽しいと思ってもらえるような体験を生む方法を考えています。(もちろん、研究団体に所属していることもあり、教科書にはない題材を扱ったりすることもあります。)
それでは、教科書はそもそもどのように使うことを想定しているのか。教科書の使い方に関して、東京書籍は以下のように想定しています。
このように、授業中の活用のみならず、子どもの復習といった「個人で学ぶ(考える)状況」を想定して作られているのです。つまり、個人が学習するにあたり、「どう考えれば良いか分からない」「答えは出たけれど、どうしてその答えになるか分からない」状況にならないように、「思考をサポートする役割」を算数の教科書は有しています。教科書を見ると、必ずと言っていいほど(子どもの)キャラクターが登場し、算数の学びにつながるような言葉が載っているのはそのためです。
ここで指摘できることは、役割が広い(「主たる教材」=授業中の教材・個人学習のための教材)ことにより、「授業中での使用」と役割を限定すると「全てがほぼ完成された形で載ってしまっている」ということです。
新しい考えをにたどりつく発見をしようとしても、教科書にはもうすでに発見の内容、着眼点が示されてしまっているのです。考えるというのは負荷がかかる行為ですから、「教科書に正解があるならば、それを見れば早い」と思うのは当然の流れです。難しいと感じた問題にヒントをもらおうと思ったら、ほぼ答えを教えられてしまう状況です。
その状況では発見する楽しさ、考える楽しさを体験できるとはなかなか言えません。東京書籍はこの点に対し、「授業中の教科書の使い方」として以下のような使用例も示しています。
要するに開いて使っても、閉じて使ってもよいのです。
ここで閉じることが出てくるのは、先ほど述べた「全てがほぼ完成された形で載ってしまっている」ことを踏まえてのことでしょう。教科書通り学びを進めるだけではなく、自分らしい学びも大切にして欲しいという作り手の意図なのではないでしょうか。
以上のように、簡単にですが教科書がそもそも何のためにあるのかという点について考えてきました。そこで、共有できたことを整理すると以下の3点です。
教科書は授業で使う以外にも、個人で使うことも想定している
個人でも学べるように、思考をサポートするように作られている
教科書には授業で大切にしたい内容や着眼点も全てがほぼ完成された形で載ってしまっている
そこで、この「教科書」を閉じることでどのように算数の授業が広がっていくのかを実際の授業をもとに考えていきます。
「教科書を閉じる」ことで広がる算数の世界
〜教科書は閉じることで何を子どもたちへ伝えるのか?〜
①5年『小数のかけ算』の授業から
…「なぜ位の数だけ小数点を動かすのか考えたい!」が生まれるまで
5年生の「小数のかけ算」の単元を紹介します。
既習事項は4年生まで小数×整数までの計算です。この単元では、乗数(かける数)と被乗数(かけられる数)どちらか一方、または両方を整数にし、その分、積を小さくすることを理解し、かけ算の世界を拡張していきます。
問題は教科書で扱われている問題です。
リボンの量を「2.3m」と提示せず「□m」と提示することで、既習の数字を当てはめることでこの問題がかけ算の問題であることをつかみ(問題場面の単純化)、□に小数が入ることで未習の内容を明確化しています。
教師が板書しながら子どもたちはノートに写していくことで、子どもたちは様々な反応を見せます。板書左側の「1m→80円」の部分は、「1m80円なら、俺のお小遣いで30mぐらい買えるな!」という発言を「面白いこと言うね〜!もう一度教えて!」と全体で共有したものです。
教科書は完成した問題として提示されるため、教科書を開いて問題を確認した場合、こうした問題場面に半歩足を踏み入れたような柔軟な発言はなかなか生まれません。算数では「…だったら」と場面を自分なりに設定して考える姿勢を大切にしていますが、「考えたくなるきっかけ」がなければ子どもの思考を引き出すことはできません。
遠回りのように見えますが、さりげないやりとりが既習を思い出し、式の表現方法を確認することにつながります。そして、「お小遣いけっこう貰ってるね!〜〜さんだったらどれくらい買えそう?」「どんな式で計算したの?」などと、子どもの話を膨らませつつ、この時間で扱う算数の世界に引き込んでいくのです。
抽象的に表現すれば、問題をただ提示しても、教科書で確認しても、問題場面を子どもは把握したとはいえません。子どもたちとやりとりを重ねていくことで、問題場面の輪郭をはっきりさせ、「乗数が小数の場合の計算方法を考えたい!」という状態まで進んでいくのではないでしょうか。
板書の中央部分で「2.3×80ならできる!」と書いてあるのは、既習と未習を明確化しているために、交換法則を使って既習にすればできるという発想でした。
このように、教科書を閉じて始めることで「自分ならばどうやって問題を解決できるか、教科書にはない方法でも考えてよい」というメッセージを子どもに伝えていると言えます。
ただ、今回の授業で子どもたちは「それでもできるけれど、かける数が小数の場合どうするのかを考えようよ!」と話していました。
「小数のかけ算」などの計算領域の単元では先行知識を持ち合わせている場合が多く、「小数点を下ろせばいいよ!(4年生の既習)」「小数の位の数だけ、積の小数点を動かせばいいよ!(先行知識)」と混在して出てきます。
教科書では、1時間目から「10倍すると10分の1」を指導するようになっています。ですが、今回の授業をした子どもたちには「なぜそのようにするのか?」を考えるよりも、「かける数が小数でも計算できる」ことを示すことに意識が向いていたので、一部の子の考えを「こんなやり方もあるよ」程度で紹介することにとどめています。
2時間目は被乗数が1より小さい場合です。
1時間目同様、問題文を一緒に書き「0.6が1より小さいね!」と子どもたちが気付きます。ここではすぐに解決させず、立式に焦点を当てています。「数直線で式にできるか確認しよう。」と投げかけ、数直線の書き方を示し、子どもたちに問題文にある数をノートに書き込ませていきます。(板書:中央左「どっち?」の部分)
そこで、「どっち?」と板書にあるように、子どもたちの書く数直線が2つ現れます。「1mは80円」「0.6mは□円」の2つの量や「0.6mと1m」などの対応関係を意識せず、「前は左下に1があったから」「問題文の順番に左から数字を入れていく」など、手続き的に図の完成を進めてしまうことが背景だと考えられます。
2つの数直線を比較することで、「0.6は1より小さいから左」「1mの重さが80円と書いてあるから上下」などと、2つの数量関係に限らず、4つの数量の関係を意識する発言が生まれていきます。その言葉を数直線で確認していくことで、子どもたちに数直線の書き方が共有されていくのです。
この部分の教科書では、0.6にあたる部分以外が書かれている状態の図が示されています。子どもたちは対応関係の意識の薄さによってエラーを起こすのですが、そのエラーは同じ量の大小関係に留められています。(後述しますが、0から数直線を描く経験をすることによって、立式に困ったときに数直線を書いてはっきりさせることができるようになりやすくなります。)
教科書のよいところは、手掛かりがはっきりしているので混乱が起きにくいことです。それは個人で学ぶ際にはとても重要なことです。ただ、集団で学ぶ場合はどうでしょう。困ったことや難しいと感じることは、クラスにいる仲間たちと共有して解決すれば新しい学びとなるとてもよい教材といえるのではないでしょうか。さらに、困ったら仲間が助けてくれると感じることは、集団に対する安心感も生み、学級としての一体感が出てくるはずです。
算数は、基本的な数、式、図の構造がある意味単純で扱いやすいため、何につまずいているかを考えやすいと思います。だからこそ、間違いも見つけやすく、「正解至上主義」にも陥りやすくもあります。まずは「それは違うよ。正しくは…」と、最短ルートで正解を目指すのではなく、「あぁ!そういうことあるよね!みんなはどう思う?」と、子どもたちの素朴な思いも教材として、授業に位置付けてみるのはどうでしょうか。
こうして3時間目を迎えました。3時間目は被乗数、乗数ともに小数の場合です。
これまで子どもたちの多くは、小数の操作(筆算で小数点をおろす)によって積を求めています。ようやくここで、子どもたちの心と思考が動き始めるのです。
教科書の問題を板書し、子どもたちはノートに写します。(教科書は閉じたまま)「数直線かこう!」と式をはっきりさせるために、問題文を早く書き終わった子どもたちは、数直線を書いて式を立てていました。それを共有し「今日は小数×小数だ!」と明確化していきます。
「できそうかい?」と問うと「大丈夫!」と自信ありげです。「では、自分の考えを書いてみてね。」と促し、子どもたちは考え始めます。
少し時間が経って子どもたちに聞くと「筆算でやったよ!」と言うので、聞いてみました。すると、本来の積は「7.56」のはずなのに、「75.6」と答えます。それを聞いていた子の数人も「同じだ!」と反応します。
その一方、一部の子は「え!?ちがくない?」と声をあげます。そこに「だって、今までも小数点をおろすことで積を求められていたじゃない?」と75.6と考えている子の反論。
さて、ここで7.56と考えている子どもたちはどう切り返すか。楽しみにしていました。
「小数×小数の場合は小数の位の数だけ積の小数点を動かせばいい…」
話しているうちにだんだん声が小さくなってきます。周囲の「小数の位の数だけってなんやねん!」という圧に負け、苦笑い。
続けて違う子が「俺も予習でそうやって解いていたんだけど、なんで位の数だけ小数点動かすのか分かんないんだよね…!」と正直に話してくれました。
そこで、「みんなは小数点を下ろすものだと思っていたけれど、どうやらそうではないという意見も出てきたね。なんで小数点をおろしてはいけないのかがみんなの「?」と言うことだね。」と私が整理します。
それを板書に位置付け、まず数直線で「7.56」と「75.6」を見直します。やはり「75.6」はおかしい。すると、整数に直して考えていた子が「こう言うことじゃない?」と、板書右側の「いったん整数にする」という考えを出してくれました。
それを「10倍」「100分の1」でつなげていくと、子どもたちは「あぁ〜〜〜!わかった!」と声をあげ始めます。今までの先行知識(予習の先行知識や授業での既習事項)と目の前でなされている「小数×小数」の計算が、子どもたちの中でつながっていったように見えました。
「整数にした分、戻すってことなのね!」という言葉が、最終的な子どもたちのまとめです。
教科書に出ている考え方があると「教科書にあるから扱わなくてはいけない」と思ってしまうことがあります。その考え自体は間違っているとは思いません。
私が危ういと感じるのは「教科書にある考え方は「必ずこの時間に」扱わなくてはいけない」と考えてしまうことです。
子どもたちに考える準備ができていないのに考えさせようとしても、ただの強制にしかなりません。(もちろん場合によって、「紹介」は必要だと思いますが)
今回、「10倍した分、10分の1にする」ような小数のかけ算の考え方を1、2時間目に大きく扱わず「紹介」に留めたのは、子どもたちが計算の原理に着目する準備ができていないと判断したからです。
それは、子どもたちがこれまでどのような算数体験をしてきたかによります。
計算方法を確実に身に付ける、計算練習をたくさんすることに重きを置いていた場合、子どもたちは「なぜこのような計算方法になるのか」といった原理(考え方)に着目しにくいと体感的に感じます。そうしたときは、「今日扱う考えが他の場面でも引き出されるから大丈夫」と自分に言い聞かせ、次の時間に持ち越して「待つ」ようにします。
大切なことは、この単元を通して学習内容や見方・考え方を子どもたちが獲得できたかどうかなので、1時間で全てが決まるわけではありません。
今回の場合、3時間目で計算の理解をし始めた子どもたちに、「前の小数点をおろすのは、この考え方で説明するとどうなるのかな?」と問えば、「前は10倍して10分の1だったから小数点をおろしているように見えただけ。」と的確な説明が返ってきます。すでに計算方法の原理を理解する準備ができた子どもたちですから、指導していなかった部分は簡単に理解できます。
こうしたある意味「伏線回収型の授業」といえる展開は、「今日の授業をとにかくなんとかしなくては」と毎日必死に授業を考えているときは難しいと思います。その思考から少し抜け出し、「単元の中の1時間、今日の1時間で子どもたちはどこまで辿り着くかな?」といった少し先を見通そうとするマインドセットで授業を捉えることで余裕が生まれ、子どもの思考の深まりを感じながら展開していくことが可能になると考えています。
教科書を開かないことで、授業は子どもたちの思考にフォーカスすることができます。それは、「今、みんなが考えていることを大切にする」というメッセージを子どもたちに伝え、子どもたちの手で学びをつくっていこうとする雰囲気をゆるやかに教室の中に醸し出していけるのではないでしょうか。
②5年『小数のわり算』の授業から
…「数直線を書いてみようよ!」と子どもが言うまで
次は「小数のわり算」の単元での実践です。板書は除数と商の関係の場面です。
小数のかけ算の2時間目でも重複した内容になりますが、問題文を一緒に書いていくことで子どもたちの言葉が引き出されます。「難しい。」「この問題何いっているの?」「これかけ算?わり算?」こうした子どもたちの言葉は、正直な感想です。
そこで「はっきりさせたいね。」と投げかけると、子どもたちは「数直線を書いてみようよ!」と提案してくれます。
授業の中で子どもの「やりたい!」は生まれているでしょうか?
強い思いである必要はありません。「先生次はどうするの?」「教科書見れば分かるじゃん」とそんな風に思うのではなく、「だったら、こうしてみればいいんじゃない?」「あ、こういう考え方できそうだな」と、困った時に自分たちの手で解決する手立てを考えられるような子どもたちに成長して欲しいと私は思っています。決められたレールの上に乗せられていると思わせるのではなく、「自分たちのやりたい」で進んでいく。そんな授業をつくっていきたいなと思います。
③5年『小数のわり算』の授業から
…「あまりが3になる気持ち分かるよ!」と相手に寄り添う学びまで
もう1時間「小数のわり算」の授業の紹介です。研究授業でもみることのある「あまりの処理」の場面です。
教科書の構成は以下の通りです。
ここでのポイントは②です。教育出版の教科書では、子どものキャラクターの「あまりは3でいいのかな。」というふきだしとともに、2.3mを0.5mずつ等分する図が載っています。子どもたちが答えを求めているときにこの部分をみることで、「あまりは3じゃないんだな。」と分かるようにできています。
このように、教科書の思考の道筋はシンプルで分かりやすく学習できるようになっています。授業を行うにあたりこの①〜④までは子どもたちと考えたい内容なので、子どもの思考の流れに合わせて取り上げていきます。
それでは授業の紹介です。
問題を写しながら子どもたちが気付いたことを交流し、①の部分はすぐに話題になります。「何本できてだから、商は整数ではないといけないね。」「と、言うことは1.1という商はだめだね。」などというようにです。加えて「あまるでしょうか。」という文末にも着目し、前の時間との比較で「今回はわりきらないね!」ということが確認されました。
ここまでのやりとりで、今日のテーマは「あまり」だということが分かってきます。「それでは、とりあえず計算してあまりを求めてみようか!」と促し、子どもたちはあまりを求め始めます。
はじめのやりとりで「あまりがどうなるのか?」という意識をしっかりともっているので、子どもたちはあまりが分かると近くの人と確認したくなります。すると、もう「同じ!」「違う。なんで?」と交流が始まるのです。
「みんなの話を聞いていると、どうやらあまりが人によって違うようだね。どうなったの?」と聞くと、「3と0.3の人がいる」ことがはっきりします。「3ではないよ!」と相手の間違えを指摘しようとする発言もありますが、「3にしちゃうのも分かるんだけど、あまりは0.3にしないといけないんだよ。」という相手の思考に寄り添うような発言も出てきます。そこで、「3mの人は、そう言われて「え?何が違うの?」と思って心配になってしまうよね。」「だからまずあまりを3mにした人の気持ちを考えてみようか」と、子どもたちと一緒に考えることにします。
式の操作で考えたり、筆算で計算したりした子の話を聞き、商が一緒であることと、被除数と除数を10倍したら商は変わらない性質だからあまりもそのままにしたことが分かりました。それを聞いていた0.3の子どもたちも同意していました。
一方で、「でも、その性質だと商は変わらないけれど、あまりがその数のままだとまだ0.5mとれることになるんだよね。」と指摘がでます。そこで、「あまりが0.3mになる理由」を子どもたちに聞くことにします。子どもたちは、まず数直線をかき、0.5mずつ区切っていってあまりが0.3mということを示しました。教科書で言うと②の部分です。やはり、この時点で3mだと考えていた子どもたちは「たしかに!」と納得です。その後、「あまりを0.3mと仮定すると…」と③にあたる確かめる式が出てきます。
これまでの交流を通して、あまりが0.3であることは十分に説明されていますし、子どもたちも0.3に納得です。
そこで、「あまりが3ではなく0.3だと分かったけれど、みんなが求めた3は何の3だったんだろう?」と聞いてみました。すると「あ!それって0.1が3つの3じゃない?」と閃いた子がいました。「どう言うこと?」と聞くと「整数に直すと23÷5は0.1をもとにしているから、あまりは0.1が3こ分で0.3ってことだよ。」と話してくれます。この発言によって、「3は0.1が3つの3だから、これは筆算でいうと元の場所の小数点の位置に戻すことなんだね。」と、あまりを3とした子の考えも取り入れながらあまりの出し方を共有することができました。
以上がこの授業の紹介でした。
個人的には「あまりは3なの?0.3なの?」という対立型の授業ではなく、「3としたくなる気持ちわかる!」「0.3とするのはこういう理由なんだ!」と子どもたちに思ってもらえる展開の方が好きです。
対立型の方が熱を帯びた授業になる可能性があります。しかし、気をつけなくてはいけないのは、相手の考えを否定や自分の考えの正しさの主張が中心になってしまうことです。そこに配慮した上での対立型の授業は非常に魅力的だと思います。
今回は、相手がそれを答えとしたくなる気持ちを理解することに価値をおいて授業を構成しています。それは、相手に寄り添うことで学びを深まることを体験してもらうためです。みんなが3としたくなる気持ちに寄り添い、その3が何を示しているのかを捉えることで筆算のあまりの処理の原理が見えてきます。
教科書を閉じて算数を始めることのよさは、こうしたリアルな考えを理解することで学びを深めていけることなのではないでしょうか。
「教科書を使わない」ではない。
〜教科書は「問題」の宝庫〜
教科書を使わない算数の授業で引き出す子どもたちの姿が伝わったでしょうか。
教科書をただ開かないだけで、教科書はかなり活用しています。その1つは計算の練習が主となる時間です。
どちらも教科書の問題を提示して子どもたちと一緒に解く授業です。何ともない授業ですが、少しずつ問題が変化するようにして配列に工夫を加えています。
例えば、1問目と2問目では小数点以下の位が増えていたり、十の位まである小数にしたりして小さな変化を入れるようにします。そうすることで、「あ、位増えた!」などと小さな気付きを生むのです。その気付きに対し「よく気付いたね!位が増えたら難しいかな?」と返し子どもたちに思いを引き出します。
多くの子は「位が増えても大丈夫!やり方は変わらない!」と返してきますが、「こういう場合はどうなの?」と今までの学習が他の場面でも適応できるのか確認する子も出てきます。その都度「この場合はどうか?」を子どもたちと確認していくのです。そうして細かく場面を捉えられるようにして、改めて「どんな問題でも大丈夫!」と思えるようにしていくのです。
新しいケースの問題に不安を感じる子は一定数います。どんどん取り組ませるのではく、不安に寄り添いつつ、時には似た問題をもう一問加えたりして計算の習熟を図ることが教科書の問題を使ってできます。それを可能とする問題量が教科書にはあるからです。だからこそ、教科書は問題の宝庫なのです。
この段階を経た後は、個々の状況に合わせて量が必要なのか、難しい問題にチャレンジするのか、個別の関わりが必要とするのかを考えていきます。
長くなりましたが「教科書を閉じて始める算数授業」として、実際の授業をもとに子どもたちの学びを紹介してきました。
1番伝えたいことは、教科書を閉じることで「学びは自分たちでつくりだし、それを楽しむんだ」というメッセージを子どもたちに送ることです。周りの子がどんなアイデアをもっているかそれが楽しみになるだけでも、授業を楽しく感じられると思うのです。
改めて、教科書の問題は良いものが多いですし、教科書は様々な用途に耐える良い教材だと思っています。その教科書をどう使い、何を子どもたちの学びにするのかの方針を決めることが教師の役割なのではないでしょうか。
使える問題はどんどん使い、子どもたちに楽しい算数の体験を一緒につくっていきましょう!
それでは、ありがとうございました。
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