個別から普遍へ ハン・ガン「少年が来る」を読む
前回、オールドメディアの業界人は「エーテル」に浸かっており、そのせいで現実との齟齬をきたしているのに、それに気づけない次第について語った。かれらはいまも、みずからを特権を有する選民だとみなしている。
だが、そういうわれわれもまた、古き「エーテル」に浸かって生きている可能性は大いにある。
私が「エーテル」と表現したものは、要するに、前世代から受けついだものの、もはや現実に機能していない、死んだ「信念」のことである。
それがまさしく過去の残骸となり、有効期限が完全に切れているにもかかわらず、そのことに気づかずに服用を継続するから、結局はお腹をこわすことになる。
信念、あるいは「理想」といってもいいが、それらは所詮、相対的なものであり、歴史的なものである。ある一定の期間を過ぎれば、その有効性を失うのである。
なぜならば、そうした時代を画する信念は日付をもつものであり、その世代の人々の情熱と営為の結果として受肉するものであるからだ。それが人間的なものであるかぎりにおいて、相対性をおびるのである。
エーテルは確かに存在しなかったけれども、その信念のもとで、マクスウェルやローレンツやプランクといった人たちは、偉大な業績をのこした。
アインシュタインはかれらの信念に終止符を打ち、新たな世代の信念を樹立する先頭に立った。しかしそれも、さらなる新世代の登場により、世界解釈としての因果律は不確定性へと移行した。
私は新年の所感に、オールドメディアに対する、ネットメディア・SNSとの力関係が逆転したことについてのべたのだが、それは一つの歴史的兆候であり、貴重な指標となる現象としてある。
つまり、その背後には、時代の本質的な変革――破滅と創造という現実がひかえているのである。社会概念としての「自由」「平等」「民主主義」「権利と義務」「性」「労働」「権力」その他あらゆるものが、今まさに、生まれ変わろうとしている。それは現象としては明白な混乱であり、価値の崩壊という形式をとる。物理学やマスメディアで生じている事態はあくまで全体の一部を構成するものであり、それよりもはるかに広範で複雑な根底からの変動に、われわれは際会しているのだ。
私のような昭和の人間のもつ信念はもはや通用しない。かといって、それに代わる信念の体系はいまだそのすがたを現してはいない。時代は新たな段階に突入しているにもかかわらず、われわれはまだ有効な格率のレパートリーを手にしていないのだ。
こうした危機の時代に人がやれることは一つしかない。
根本的な現実としての自己に立ちかえること――それ以外にない。私自身との関係性を無視して、信念や理想をそれ自体のうちにさぐろうとすることは、いかなる意味のある達成にもつながらない。
ここで私のいう「信念」とは、生の機能であり、手段であり、人間特有の器官であるからだ。それはわれわれの自己と分かちがたく結びついているのである。
私は「現在」を、そのような激動の過渡期として見ている。
そうしたなか、たまたま、ハン・ガン氏のノーベル賞受賞のコメントを朝日新聞で読んで感銘をうけた。その話をしていたら、そこに居合わせた女性が、
――私、彼女の翻訳された小説ぜんぶ持っていますから、お貸ししましょうか?
と、申し出てくれた。
私はその言葉に甘えて、「少年が来る」を借りた。
「少年が来る」
ドストエフスキーがポリフォニックな作家であるとするならば、ハン・ガンはモノフォニックな作家であると私は思う。一冊しか読まずにいうのも気が引けるが、たぶん、長編作家というよりは、本質的に、短編作家としての資質をそなえている。
「少年が来る」は、トンホという少年をめぐる物語であるのだが、本人をふくめた人物たちのそれぞれの視点からなる「短編」の連作によって構成されている。一人称体、二人称体が混在している。
背景にあるのは「光州事件」であり、戒厳令下の光州における軍による市民虐殺が、人間の罪の本質として問われている。
数ページ読んだだけで、作者が大家のメチエを体得していることが解る。そのすばらしい文体の魅力は、翻訳であっても、じゅうぶんに伝わってくる。詩的な比喩とリアリティが無理なく同居している。ファンタジーとして提示される冷酷な描写は悪魔的なリアリズムとして読者の魂に作用する。
ごくまれに現れるきわめてひかえめなユーモアも、人間存在の残酷な条件をことさらに際立たせる。
小説世界はあくまで暗い。重苦しい濃い灰色の雲の隙間から、時たま射し込む一条の光も、その温かい光の感触も、その都度ただちに掻き消される。のこされるのは、救いのない暗鬱な印象である。瞬間の光との対比によって、それはよりいっそう深い暗さを増す。
「少年が来る」の小説世界は、新聞で私の読んだコメント、
――どうして世界はこんなに暴力的で苦しいのか、そしてどうして世界はこれほど美しいのか。
という言葉に集約されている。
作者は光州事件において、みずからの人生のすぐそばを通り過ぎて行った人びとの運命を題材にして、人間がその本質に持っている善意と暴力、明るさと闇とを描こうとしている。
そしてそれは、みごとな成功をおさめている。適切なレトリックと緊密な構成。これほどの達成をしめした現代小説は日本にはない。
「死」の洞察
「少年が来る」には、おびただしい死が描かれている。ほとんどが惨殺である。
すべての登場人物が自分より先に理不尽に殺害された人びとに、複雑な感情をいだいている。
どうして自分は生き残り、かれらは死ななければならなかったのか。無言をつらぬく運命とその不条理に、かれらは苛まれている。
それぞれの立場や状況から、宿命に連れ去られた死者を想い、取り残された自分を見つめる。
生者とは、いかなる必然的な理由もなく、死から取り残され、置き去りにされたものである。それがハン・ガンの死生観だ。
死を眼前にすえたとき、生者もまた、死者と同様に孤独な境涯にあらわれてくる。
しかしハン・ガンの死への洞察はそこでは終わらない。
作者は視線を反転させる。
死者もまた、取り残され、置き去りにされた者として描写される。それまで親しんできた家族や友人や共同社会の関係性から、有無をいわせぬ力によって、一人だけ抜き出され、排除され、あらゆる世界との関係性を断たれることとして、死はあらわれている。
死とは生にとりのこされることである。
ハン・ガンは、そうした死の理不尽な孤独に苛立ち、そこにいかなる安寧を観ようともしない。のみならず、あらゆる死への傾斜を悪の徴候としてとらえる。
たしかにここで示されている「良心」は虚偽のものである。それはある種の集団心理であり、いささかも善に道を通じるものではない。
だがしかし、そこにいたるまでの「信念」から結果する素朴な動機と、素直な衝動にまで、疑惑と否定の眼をむけることは、私にはできない。そこには、正義たらんとする人間の原初的な意志がはたらいていると考えるからである。
小説の倫理
私は、おおかたの書評とちがって、この作品に、善悪の問題が描かれているとは毫も思わない。むしろ登場する人物たちに倫理性は希薄であると、あえていいたい。
厳しい物言いをすれば、そこにあるのは生きのこった者の後ろめたさであり、過酷な運命にたいする呪詛と絶望である。それは真の意味で倫理を問おうとするものではない。不合理な現実世界にたいする不信と懐疑の真率な吐露である。
私はハン・ガンをモノフォニックな作家だといった。
その意味で、もっともリアリティがあるのは、第三章「七つのビンタ」である。登場人物の視線と作者のそれとは過不足なく重なり、作者の感情と意思のかなりの部分を直接的に反映しているように見える。
作者は光州で起こった政治的惨事を俯瞰して観ようとはしない。視点はあくまで、生者・死者を問わず、迫害された人びとに寄り添い、かれらのがわに立つ。そしてそれを頑固に維持している。
一度たりとも、迫害者の視点に立つことはしない。かれらは一方的に、暴力的で、非人間的な怪物と化した人間として描出されている。わずかながら、軍の中にも消極的な反感があったという記述がある程度だ。それが悪いというのではない。
けれども、かれらもまた、「良心」に動かされていたとは考えられないのだろうか。かれらの野蛮で残虐な行為が、「数十万の人々の血が集まって巨大な血管をつくったようだった新鮮な感じ」に動かされていたといえないだろうか。
視点を変えれば、個人として、かれらもまた反対の側から、過酷な運命に翻弄されたのではないか。
「汚いアカどもめ」と叫んで、少年たちをも容赦なく惨殺する軍人を弁護しようとは、もちろん私も思わない。
軍人や政府の中に、行きがかりから、あるいはイデオロギーから、そうした残虐行為に加担せざるをえなかった人々もいただろう。自己の弱さに、はかりしれぬ悔恨と苦悩を課せられた人たちの絶望に同情しはしても、私はそこに意味を見いだすことはない。
倫理とは「良心」に属するものでもないし、厳密にいって、「内なる声」でもない。それは私の外部にある、ある意味、客観的な基準である。
人間は自由なのだ。どこへ向かおうとかまわない。その場合、「内なる声」を頼りにすることは、つまるところ。エゴイズムという迷宮に足を踏み込むことに帰着する。
進路を定める方角は、私の内部にあるのではなく、外部の客観的基準として存在していなければ意味をなさない。東西南北は自己をはなれた普遍的なものであり、それを参照することで、私はこの世界に自分を位置づける。
倫理とは、責任の所在を他者に見るものではない。善悪の問題は、これをあくまでもみずからのうちに参照しなければ、それは真の意味でモラルとはいえない。
ジャーナリストが光州事件の残虐性を批判するのとは違って、こと文学においては、それがそのまま人間悪を追究することにはならない。
ハン・ガンもそのことを知悉していることは、私にも解る。けれども作者の外部を欠いた視線は、閉じられた自我として機能する。こうした作者のモノフォニックなスタイルは、読者を密室に閉じこめて、外部の新鮮な空気を奪い去り、われわれを窒息させる。自分がどこから来て、どこに向かうのか、方角を見失わせるのである。
その結果、世界が「暴力的で苦しい」ことは痛切に伝わるが、もう一つのヴィジョンである「どうしてこんなに美しいのか」に読者が誘われることはない。
人間のおかれている状況は、根本的に「苦難」である。
人間は自由であり、「すべてが許されている」のだが、そのかわりに、周囲世界における自分の位置を自分で定め、たてつづけに生起する新たな事態に独力で対処しなければならない。
私のいう「信念」とは、その場合に個人のよすがとなるものであり、そのプログラムの体系である。
ハン・ガンは、もはや機能不全に陥っている冷戦時代の「信念」に、いまだに拘束されているように、私には見える。それが作者の姿勢を苦しいものとし、小説があたかも自傷行為であるかのような暗鬱なものとなっている。
「少年が来る」に描かれる人物はみな、生から取り残された人びとである。彼らは生きながらにして、死に接している。内面は空っぽであり、やるべきことを持たない。ふたたび自分の心を満たしてくれるべきものは永遠に過ぎ去っていったのだという諦念のうちにある。かれらをとらえているのは、「暴力的で苦しい」世界への抗議と反感の念だ。抜け殻となり、燃え残った灰のようになった登場人物たちの人生には、「にもかかわらず美しい」と思える救いはどこにもない。未来に希望がないからだ。そこには一すじの糸もさしのべられてはいない。
生のパラドクスについて
中学生のトンホは、隣に住む同級生のチョンデが、デモ行進の最中に、戒厳軍の銃の乱射にあって斃れる瞬間を目撃する。それを横目にかれは現場から逃げ出してしまう。
だからトンホは、市民の拠る道庁にふたたび戒厳軍が迫るなか、ソンジュ姉さんや、チンジュ兄さんや、母親に嘘をついてまで、死を覚悟して、そこにとどまる。
確かにそれは、「良心」という錯覚だったのかもしれない。だとしてもそれは衝動的なものではなく、自分の魂で悩み、自分の意志で決めたことなのである。たとえそれが、作者の示唆するように錯覚であったとしても、そのときトンホの生は充実していたのではないだろうか。そこに希望はないだろうか。
だが作者は、そのことをごくひかえめに仄めかすだけで、トンホの真実について何も語らず、ただ謎として、手のとどかない過去として放置している。そこに私は、ハン・ガンの歪められた苦痛を見る。
錯覚だろうと、虚偽だろうと、そんなことはどうでもいい、その必死の決意と覚悟に、世界の「にもかかわらず美しい」根拠が存するのではないか。
人は、みずからの命と交換しうるものによって、最も充たされる。人を死に駆り立てるものが、最も人を生に駆り立てる。これは人間のもつ、根源的な逆説である。
トンホは失われた友情をみずからの命で贖う覚悟を決めて、武装集団にのこる。その意味にハン・ガンは気づいている。けれどもそこから先にすすむことに作者は逡巡する。そこから、真の意味で、善悪の問題が始まるというのに。
光州事件の悲惨さを、昭和の日本にぬくぬくと育ったお前には理解できないのだ、という人もあろうかと思う。たしかにそうかもしれない。しかしそれは、私の責任ではない。そうした言辞で人を脅しつけようとすることもまた、典型的な暴力の一形態である。
世界は確実に、ますますつらいものとなってきている。
確かに物質的に豊かになり、医療は発達し、歴史的にみれば「公平」な世の中になってきているが、われわれの生命は漂白され、念入りに殺菌処理されて、日々、生気を失っている。通信基盤の普及と浸透は、人と人との絆を強固にするよりもむしろ、それを切りはなち、われわれをますます孤立化する方向へと作用している。文明の進展は、それを上回る環境破壊・大量破壊兵器として還帰する。
人類はどこかの段階で大きく道を誤ったのだという確信がすべての人に共有され、しだいに深まっている。旧来の思想は役に立たず、あらたな理想像はいまだない。
でもそれはけっして悪いことではない。
われわれは過去に押しつけられた重い鎧具足を脱ぎ捨てて、徒手空拳で現実と斬りむすぶ絶好の機会をあたえられたのだ。
すすんで運命の過酷を引き受け、イデオロギーを投げ棄てよ。人生は労苦にみちたつらいものであるにしても、その現実に自己をさらし、耐え、みずからの能力を最大限にひきだしてそれに対処しようとすること自体が救いなのだ。どうせ滅びるものならば、全身全霊をかけて滅びよう。
にもかかわらず――いや、それだからこそ、世界はすばらしく、そして美しい。
人生は生きるに値しないがゆえに、この上ない価値があるのだ。
いろいろとマイナスなことも書いたが、それは勝手な無いものねだりであって、「少年が来る」は、まごうことなき傑作である。しかも、近い将来、これを凌ぐ快作がもたらされることを予感させるたぐいの傑作だ。