カント「永遠平和のために」は誤読されている
「永遠平和のために」は、誤解の書
カントの「永遠平和のために」といえば、現代では、絶対平和への道すじを哲学的に示す、平和論者のバイブルとして通用している。じじつ、さまざまな論者がそれに言及し、主張の拠り所としてきた。
いうなれば、保守派現実主義の攻勢に対抗する、黄門様の印籠のようなはたらきをしてきたのだ。
かくいう私も、恥ずかしながら、そのようなものと理解していた。
なにしろ読んだのが数十年前で、正直な話、実際の本文は記憶の彼方にあり、「永遠平和のために」のイメージは、そののちに目にした平和論の枠組みの中でかたちづくられたところがある。
そのいっぽうで、なんとなく違和感をもっていた。私の原イメージとのズレを感じていたからだ。
――こんな、お気楽なこと、いってたっけ。
そんなこんなで、今回、読みかえしてみることにした。
中山元氏の新訳は、訳文もこなれているし、関連するレアな論文も併載された、掛け値なしの「名著」である。
そこに私は、変形されてきた著書のイメージを、正道にもどそうとする訳者の明確な意図を感じる。
微力ながら、私もそのお手伝いをしよう。
第一幕 「世界共和国」
具体論でいこう。
おなじみ、柄谷行人氏にご登場をねがう。
かればかり槍玉にあげているようで申し訳ないが、さいきんたてつづけに読んだことと、やはり柄谷氏は、押しも押されぬ大立者で、書いていて、はなはだ歯ごたえがある。
私のような者が、世界の片すみで何をいおうが、びくともしないという安心感もある。
で、柄谷行人氏は、つぎのようにのべている。
このあとに、カントにおける「理念」とは何かという哲学的考察がつづくのだが、そんなことはどうでもいい、そもそもカントは、国家連合を推奨し、「世界共和国」を否定しているのである。
たぶん、柄谷氏の引用の当該個所は、ここだろう。
「世界共和国」は、柄谷さんのいうように、たしかに、「積極的理念」として提示されている。
議論に入るまえに、いっておきたいのだが、カントの言葉は、一人の人間として日付をもつものであり、特定の歴史的地平でなされた発言である。とりわけ、ここで論じられているのは現実政治であるのだから、カントの生きた時代の歴史的理念というものを、よくよく考えておく必要がある。
じっさい、カントにとっては、プロイセン王・フリードリヒの治世における、開明的啓蒙君主によるゆるやかな立憲君主制が、いちばん居心地のいいものだったのだ。
それを踏まえると、ここでカントが「共和国」といっているのは、現実には、立憲君主制を意味しているのであって、われわれが「共和国」という言葉から想起する君主なき「民主制」を、かれは原理的に否定している。功利主義的な最大多数の正義を認めえないからだ。
カントのいう「共和国」は、現在の定義とは異なるのである。
幕間 数の論理と功利主義
今朝、自民党総裁選のニュースを見ていたら、コメンテーターが、決選投票になると、国会議員票の比率が圧倒的に高く、「国民の意志」が反映されないのはよくない、とのべていた。
「国民」でなく「党員」だろう、とツッコミを入れたくなったが、それは無視するにしても、無批判に「国民の意志」の反映を正当としていることに、私は疑問をもった。
それで政治が安定し、国民が幸福になれると、専門家の立場として、本当に断言できるのか。遠き国民に好かれても、近き議員に嫌われ、多数派工作もできない政治家が、はたして総裁として力を発揮できるのだろうか。
しかも、「国民の意志」という「数の論理」を肯定しながら、片方では議員や派閥による「数の論理」を非難している。ダブルスタンダードである。
それは憲法に明記された議員内閣制をも否定することになるが、発言者に、そこまでの思惟も覚悟もない。
「数の論理」こそ、民主制の基礎的成分ではないか。
耳障りがいいだけのコメントは、まっぴらごめんだ。
「国民の意志」は、かつてヒトラーの独裁政権をうみだし、文化大革命を引き起こし、プーチン氏もロシア国民の圧倒的支持をうけている。
以上は、たんなる余談ではなく、こういう現実認識を踏まえて、カントは読まれなくてはならない。
第二幕 コスモポリタニズムと、インターナショナリズム
カントは直接民主制を否定し、代議員制を推奨している。それは正しく理性を働かせうる少数の個人というものを前提としているからでもあり、それと同じことだが、代議員制度が独裁者の登場や、過てる政策への歯止めになる安全装置の役割をはたすと考えているからだ。
時代の制約もあるとはいえ、カントは、王を元首とした代議員制を基礎とする、穏健な立憲君主制を支持しているのである。「主権在民」といったことは念頭にない。
したがって、カントのいう「世界共和国」とは、つまるところ、「世界王国」を意味する。
それは、「ある一つの強大国があって、他の諸国を圧倒し、世界王国を樹立し、他の諸国をこの世界王国に統合してしまう」という文脈で考えられている。
とすれば、カントのいう「世界共和国」における「積極的理念」とは、「消極的理念」に対して優越する価値があるということではなくて、たんに、目的へのアプローチが能動的・自己肯定的であることを意味しているにすぎない。
「積極的理念」たる「世界共和国」よりも、「たがいに独立した国家が隣接しあいながらも分離して」いる「消極的理念」の方が、たとえそれが戦争状態であっても、のぞましいと、カントははっきり言明している
なぜなら、こういう多極的状態こそが、「国際法の理念の前提をなす」と考えられているからである。
カントは、柄谷行人氏のもとめる権力の集中ではなく、逆に、分散をもとめている。それは「ネーション」の多様性を重視するからである。
カントは理性的個人を根底にすえてすべてを組み立てているので、中央集権的な管理ではなく、個人の主体的な自由意思の延長線上に、国際法ないし「世界市民法」を位置づけており、当然、「永遠平和」もその先にひかえている。
一極集中の「世界共和国」には「魂のない専制政治が生れ、この専制は善の芽をつみとる」と、カントは明確に批判している。
要するにカントは、柄谷氏のめざすコスモポリタニズムを拒否し、インターナショナリズムを推進すべきであると主張している。
柄谷氏はあたかもカントが同じ立場に立つ者であるかのように話をすすめているのであるが、両者の論理は、明かに、たがいに対立し、否定しあうものである。
この差異が、両者の根本的人間観から帰結する本質的なものであることを、われわれは見逃してはならない。
カントの思考は、個人主義的・自由主義的・具体的であるが、柄谷氏のそれは集団主義的・制度的・概念的である。
どうです? 柄谷行人氏の主張とは、むしろ対極にあるものとしてカントの思想はあらわれているのです。柄谷氏の解釈は、私にいわせれば、誤読というより捏造に近い。
こうした誤読ないし捏造は、なんとしてもカントを自派に引き入れようとする、柄谷氏の党派性と、ある種の「ブランド趣味」から由来するものである。
柄谷行人ともあろう者が、多数派工作に血道をあげたり、過去の権威などに頼ることはない。
へんな小細工などよして、自分の信じることを、自分の言葉で説けばいい。
第三幕 ユートピア思想批判
さらにカントは、ずいぶん先回りして、こんにち柄谷氏が『哲学の起源』において唱えた古代イオニアの「イソノミア」回帰の主張を批判してもいる。
カントはいう、「黄金時代への願望」は、「空しい憧れ」にすぎぬ、と。
するどく芯を食った指摘である。
斉藤幸平君、聞いてるかい? (註 一)
不平等と労苦は、人間に推進力をあたえる燃料であると、カントは考えている。人間は、二度と「エデンの園」にはもどれないのである。
プルードンもマルクスもあらわれる前に、カントは、ユートピア的「理想社会」の本質的虚偽を衝いている。
カントは、意外に、現実派なのだ。みずからの理論に淫することがなく、まっすぐに赤裸の現実に対している。
なので、ユートピア思想や、否定的要素を欠いた自己肯定にたいして、カントはすこぶる冷淡な態度を維持している。
サン・シモンやルソーについても、共感はしめしながら、すぐにも平等や永遠平和が一挙に実現するかのようなかれらの言動は、嘲笑されてしかるべきものだとはっきりのべている。
第四幕 「戦争」と、「永遠平和」
戦争に関しても、驚くべきことに、「現時点」では、戦争は人類の進歩を促す「不可欠の手段」であると、しごく肯定的にとらえられている。
であるから、カントは、戦争の惨禍も、低次な文化しかもちえない段階の人間が負うべき、いわば自己責任にほかならないと断言する。(註二)
こういうくだりを、現代の平和論者は平然と無視している。
もちろんここでの「現時点」は、カントの生きた時代であるから、それとこれとは話がちがうと、いえないこともない。
しかしカントが甦って現代社会を見るならば、文明はいちじるしく進歩したが、人間性はむしろ堕落し、退歩をしめしていると診断するに相違ない。
「コンプライアンス」で、がちがちに縛られなければ何をしでかすかわからない――少なくとも、そうみなされている現代人が、理性的存在者であるとは、お世辞にもいえないだろう。
カントの定言命法は、みずからの良心から発する自覚的規制であって、外部の法律や制度など超越した格率なのである。
カントの「永遠平和」とは、すべての人間が個人として理性的にふるまい、その総和としての社会が完璧な文化をもちえたときに、ようやく達成されるものとしてある。
それは、到達しがたい理想であり、つきせぬ夢である。
むろん、カントも究極の理想として、あきらめずに、「永遠平和」をめざしているのだが、柄谷氏のように「道すじははっきりしている」などとは、一言もいっていない。
それどころか、そこには「自然の力」という人智を超えた不確定要素が決定的な役割りをはたすとのべられている。その過程で、戦争や殺し合いが、避けがたく生じてくると考えられているのだ。
それは予定調和説であり、宿命論である。結末は、「神のみぞ知る」とはっきり言明されている。
なるほどカントは純粋理性を奉じたのであるが、その限界をも、アンチノミー論において明確に示している。
それとおなじ思考がここでもはたらいている。
人間が「もの自体」をとらええぬように、われわれは「絶対平和」を手中にすることもまた、人間が人間である以上、原理的にできないのだ。
ここに、かれが「消極的理念」を推奨する理由がある。永遠平和は、それを「積極的理念」としてめざしたところで、けっして対象化しえぬものであるからだ。
絶対平和は、人智を超えた神の領域に存する。
人類は、目の前に次々とたちあらわれる新たな事象にひとつひとつ対処しながら、「永遠平和」というなしとげえぬ理想に向かって、一歩、一歩、躓きながらも、理想の火をたやすことなく、また理想に溺れることなく、不確定の未来を漸進的にすすんでゆくことが大切であると、カントは訴えているのだ。
つまり、平和はそれをもとめる過程のうちにわずかに確保され、永遠平和とは、あたかも北斗七星のように、われわれがすすむ進路に方向性をあたえてくれる、得難い指標なのだ。
われわれはそこを目指して歩むが、たぶん、行き着くことはないのである。
なぜなら「永遠平和」とは、この世界からあらゆる「悪」がすがたを消すことを意味している。そうなれば、同時に、あらゆる「善」も地上から消滅する。
それは無機物だけの冷めきった世界である。
(註 一)
まえに、斉藤幸平さんの『人新世の「資本論」』を論じたとき、私は、かれの現状批判に共感をしめしながらも、かれの理論にはエゴイズムを抑制する契機がふくまれていないと、大きな不満を提示しておいた。
こうした社会制度や産業構造の変革だけに依存する社会思想は、どれほど精緻に見えても、結局、ユートピア思想たらざるをえない。それは、自己のパースペクティブの外部に投影された幻想である。人間の本性――なにより、自分自身のありかたを無視しているからである。
斉藤氏の提示する未来の「アソシエーション」は、夢物語である。
カントのいうように、「人間はこのような状態にとどまることはできない。それに満足できないから」だ。まったく、同感である。
カントはじつに簡明に、ユートピア思想の沿革をしめし、その急所を無造作に抉っている。
というか、今回、カントを読みなおしてみて、かれについてのイメージがずいぶん変わった。話題が具体的であるだけに、大思想家というものの思索の凄味を肌で感じることができた。
少なくともカントの社会理論は、人間のエゴイズムを抑制するシステムを具備している。
(註二)
こうした論理は、カントの定言命法を基礎とした倫理観から必然的に帰結するものである。
定言命法とは、行為の結果から生れる不幸や利害をいっさいかえりみず、動機論的正義のみを真とする形式論理である。
そこから戦争をながめるとき、格率にそむく悪は問題となるが、そこから生じる惨禍については、せいぜい副次的な扱いをうけるだけであり、それが戦争の評価に還流することはない。戦争が結果として人類の進歩に寄与するという見方も、そういう立場からなされている。
いうなれば、戦争のもたらす不幸や災厄、もしくは栄誉や寄与は、それがどれほど切実なものであろうとも、カント思想においては、あくまで二次的なものにとどまり、かれの視線は、ひとえに、理性の命じる格率と、個々の事象から帰納された戦争一般との関係性にむけられているのである。