見出し画像

総裁選・その後

 悲しい予測があたり、私の危惧していた事態となった。
 いうまでもなく、私が名前をふせたA氏とは、石破さんであった。

 首班指名を前にして、はやくもメッキが剥げてきている。
 ふたたびいうが、かれに期待されている「哲人政治」は、二重の意味で無理なのだ。

 第一に、「哲人政治」自体がまぼろしであること。第二に、かれは「哲人」ではないこと。

安倍VS石破

 故安倍さんにくらべ、石破さんは「頭脳明晰」であるという記事をみかけたが、この比較論は、その記者がジャーナリストとして、頭脳不明晰であることを証している。

 石破さんは、「アジア版NATO」などと、勇ましい提案をぶちあげていたが、それは、「アホらしすぎてアジア諸国のどこも、絶対に乗ってこない説」である。

 南シナ海で「同盟国」に軍事紛争が起こったとき、わが国は主導的に軍事介入することができない。それを可能にするためには、それ以前に、国内で乗り越えてゆかねばならない高いハードルがいくつも存在する。
 それとも、「アジア版NATO」においても、日米安保よろしく、「ただ乗り」するつもりなのか。

 日米の「地位協定」を改訂するにしても、現在の片務的な軍事同盟関係を解消しなければ、双方にとって不平等な状態は継続する。

 いまでも多数の国と協定をむすび、軍事協力はしている。それを「同盟」に格上げするには、日本を「戦争をする国」に変えることが必要条件なのだ。

 主唱者があえて火中の栗を拾うという決意を、行為において示さないかぎり、こんな話にのってくる者は誰もいまい。
 失礼ながら、石破氏に、そのように日本を変える決意もプランもないと、私はみている。

 かりにやるとしても、時間がかかり、喫緊の問題に対応できない。

 ひるがえって、故安倍首相は、「クアッド」にみられるように、インド洋・太平洋の安全確保にむけた体制を構築するために、着々と手をうってきた。TTPもその一環である。

 日本は、資源や食糧を輸入しなければやっていけない国である。それを阻まれたことが、太平洋戦争の直接の要因だった。

 だから世界平和と自由貿易体制は、日本の存立の必須条件なのだ。

 おそらく安倍さんには、そうした認識が根底にあるからこそ、すぐにできるところから、どんどん進めていったのだとおもう。
「タカ派」だとか、そういう名札にまどわされることなく、われわれは「実質」に目を向けなくてはならない。

 どちらが頭脳明晰であるか、私にはわからないが、政治家としてどちらがすぐれているかは、自明の理である。

 べつだん私は、安倍さんの支持者ではないし、会ったことも無い。むろん、「タカ派」でもない。アベノミクスは失敗だったし、長期政権ゆえの綱紀の緩みに対処できなかったとおもう。
 けれども、少なくとも、かれの防衛問題への取り組みについては、評価できると考える。現実的行動がともなっているからだ。

 くりかえしになるが、日本の現実は、国際平和と自由貿易を要求しているのである。ロシアとはちがうのだ。
 それが損なわれると、われわれは、資源の供給先に首根っこを抑えられ、タップすることになる。

 自身の原発廃止論を有耶無耶にした河野太郎も、わが国のこうした根本的現実を考慮してなかったのである。
 かれは中核的国益より、みずからのスタンドプレーに夢中なのだろう。

 とにかく、わが国の安全保障は、ここを出発点としなければならないのである。

党内与党となった党内野党

「アジア版NATO」は、「環境問題への取り組みは、クールでセクシーでなければならない」という発言と、本質的にかわらない。

 なぜならば、それらの言葉に対応する実質、あるいは「現実」が存在しないからである。
 現実と向き合うことがなければ、選択も行動もできない。

 石破氏は党内野党で、きれいごとばかり口にしてきたから、嫌われていると、どの政治評論家もコメントしているが、それは現象論にすぎない。

 プラトンは、『法律』の中で、たとえそれが文芸作品であっても、耳に心地よいだけでなく、「間違いのないもの、有益であることが求められる」とのべている。「真であることが、善と美を完成するものなのである」

 石破氏の発言は、「真実」の重石をもたない。「アジア版NATO」も、そんなものがあればいいよね、という居酒屋の与太話である。
「間違いのないもの、有益であること」になりようのない、きれいごとなのだ。それでは「善と美は完成し」ないのである。

 総裁選において、「七条解散」は無理筋であるとかれはいったが、その時、かつて麻生政権がそれを回避しようとして、結局は自民党が大敗し、下野したという歴史は、まったく念頭にない。

 こういう人は、きびしい現実が目前にあらわれたとき、つねに現実に屈し、押し切られることになる。
 当然だ、そういう事態への予測も準備も、覚悟もないのだから。

 石破さんは、言葉を現実と噛み合わせることがないのだ。すべてはそこに起因する。

 実際、選挙戦略についても、本人が、なんら現実的道すじを示せない以上、こと志しに反して、唯々諾々と、早期解散論にしたがうほかなかったのだ。   (註 1)

 こういう姿勢はすべてに通じる。
 空理空論に終始し、現実的な提案ができないのであれば、いかなる課題においても、周囲や官僚の意見をいれるよりほかに道はない。
 それは、党内基盤が弱いとか、長老の圧力とか、そういう権力闘争以前の、ただただ当人の資質からもたらされる事態である。

 今後、石破さんは、「現実」に相渉らない空論をくりかえしながら、現実政治においては、無軌道に流されてゆくことになるだろう。

 つまり、嫌われるというよりも、自分の将来を託すには不向きなのである。かれの派閥が雲散霧消したのもそのせいだ。

 にもかかわらず、なぜ議員たちは石破氏に投票したのか。
 選挙の顔として役に立つと踏んだからである。靖国参拝の高市より票がとれると。(註2)
 不要になれば、梯子をはずせばいい。

 それもまた、「現実」である。
 しかしそれは、国民を舐めた低次元の「現実」ではないだろうか。

 クールでセクシーな総選挙になることだろう。



(註 1) 総裁選の翌日の昼に、早くも、前回登場した「ボス」の一人が、二十七日の早期選挙を私にしらせてくれた。
 いかにも、あっけない。これだけでも、いかに石破さんが無抵抗で不誠実であるかが解る。

(註2) 私はなにも高市氏を支持するわけではない。ただ、「行動」よりも、「非・行動」をえらぶことに、政治家として問題がある。
 政治家は行動者でなくてはならず、なにもしないよりは、なにかするほうが断然、ましなのである。

 追記
 以上は、総裁選の翌日に書いたものである。
事態は、残念ながら、私の予想通りに推移している。
 石破さんの奮起を願うばかりである。

 現実と向き合うためには、言葉をもっと大切に、厳密に使う必要がある。自他の真実を見つめるには、言葉によるほかないのだ。

 正直な話、私も石破さんに似ているのか、現実政治について語るのは苦手であるし、なにより、あまり面白くない。
 トゥキュディデスのように、現在進行する「歴史」と斬り結んでみようとおもったが、私には荷が重すぎた。
 これを、最後にしたい。

福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。