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解離性同一性障害が寛解したら人生一から経験し直しになった話

解離性同一性障害について書いてみる。
わたしは両親から、特に母から「あんたは多重人格」とよく言われてきた。言われ始めたのはたしか高校を卒業する頃からだと思う。当のわたしは何を言ってるんだろう、多重人格って人格が入れ替わると記憶がなくなるやつでしょう、記憶がないことなんかない、と言われたことを不愉快に感じていた。多重人格とは小学生の頃読んだダニエル・キイスの「五番目のサリー」の中でサリーが悩まされたようなものだと決めつけていた。

自分の解離について冷静に考えられるようになったのは45歳になって寛解してからだ。
それまで主人格はほとんど外に出ることはなく、わたしを守るために作られた攻撃的な交代人格が表に出ていた。冷静に解離について考えられたことはもちろんなかった。

交代人格に45歳になるまでのほとんどを任せてしまったので、寛解がやってきて主人格にわたしの肉体と時間を渡されても毎日戸惑うばかり。寝るときや掃除や洗濯や料理は主人格だったのでそれらは得意だけれど、人に接するだとか、外出するだとか、公共交通機関に乗るだとか、買い物するだとか、仕事をするだとか、他の人格がこなしていたのでとても苦労している。例えて言うなら知識はあるけれど経験値が小学校一年生並みに戻ってしまったような感覚。わたしは奥に潜んでほとんどを見ていたので知識はある、でも経験がない。45歳なのに、生きてきたはずなのに、外出のたびに人に怯えて、行き交う車に怯えて、コンビニに行くのですらとても疲れる。たくさんの人の顔を見ると疲れてしまうのであまり見ないようにしている。
一人でカフェなどに行くときは人の顔が見えない位置を選んで座ることにしている。もちろんカフェに行くと、お店に入るとき、注文するとき、いちいち怯えている。でもわたしは外出が好きだから頑張って外に出かける。主人格がこんなに時間を持ったことがないからか、ずっと一人でいると間が持たず、ネガティブなことに頭が回転しっぱなしで頭が痛くなり疲れてしまうからだ。幼い頃から時間があれば一人で外で遊んでいた。あの頃のわたしは今のわたしと同じ主人格、花や草むらやお日様が大好きだった。

主人格がこの世に放り出されてから、空間がこわいだとか、空が落ちてきそうだとか、この世が回っていることの仕組み全てを感じて気が遠くなったり、自分が、家族が生きていることが何故かたまらなく恐ろしくなったり、見ている世界が今までと違う、どうしたら戻れるのかとものすごく悩み苦しんだ。
目眩がして空間に消え入りそうになるので、最初は断薬の離脱症状とパニック障害の混合だと思い、やめた抗うつ剤を飲んだり「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせたり、一人で行動療法をしてみたり、できる限りのことをして対処していた。対処しているうちに消え入りそうな感覚が薄れてきたので少し安心していたけれど、全てを払拭するのは難しい。寛解する前は世界と繋がっている感覚があったので寛解前に戻れば今のつらさからは脱することができるかもしれない、でも寛解前には戻れないし、戻りたくない。

今のしんどさ、生きにくさにはパニック障害も離脱症状も含まれているとは思うけれど、パニック障害はもともと持っていて経験済みだったので、パニック障害では片付けられない症状はどうしたものか、わたしはまた気が狂ってしまうのではないかととても不安だった。この不安の原因が知りたかった。
目眩がして消え入りそうになるとき、鏡に映った自分を見ると何故か安心して症状が落ち着いたのも、ただパニック障害ではないと思った理由だった。解離が原因なら鏡を見て自分の姿かたちを見て安心するのは今ならとても納得がいく。
ある日同じような経験をしている方のTwitterを見ていたら「もしかしてこの例えようのないつらさは交代人格がいなくなったから?」と気付いた。

生きてきたはずの世界に馴染めない、空とも緑とも空間とも自分の距離感がわからない。大好きな自然ですらこんなに馴染みのないものになってしまって、もともと苦手な人混みや乗り物や大きな建物が平気なわけがなかった。特に他人は恐怖でしかない、肉体があって人格があって存在すること、目の前に立ち現れること、どう対処していいかわからない。
肉体のどこに自分の感情があるのか、今までどうやって体を動かして感情を動かしていたのか、よくわからないとしか言えない感覚。生きて日常を過ごす全ての動作に自信がなかった。食べること、排泄、入浴や身支度、歩くこと、どうしていたっけと自問自答しながらこなしてきた。
絶望的状態だけれど、主人格が穏やかなことに助けられている。困ってもそれなりに対処するし、無理なことに関しては一旦は悩むけれど絶対に無理をしない。

全部わたしだ。交代人格も、主人格も。あまりに別物に扱われるのは悲しい。交代人格がわたしをずっと守って、代わりに人生を歩んでくれた。なんて健気だろうと思う。そもそもショックにわたしが耐えられないから、記憶も、経験も代わりになってくれた。交代人格がどんなに性格が悪かろうと、暴言を吐こうと、それはわたしを守るためだから感謝している。ありがたかった。今までの経験を自分がしたならもう生きてはないだろう。覚えている限りの経験をして生きていられる自信はない。そこに覚えていない経験まで加わってきたら?主人格が生きているのは無理だと思われる。

交代人格を悪いとすることは解離性同一性障害の治療において真逆の効果なので当事者の方や、身近にいる方には気をつけて頂きたい。
当事者なら代わってくれた人格を愛してあげてほしい。身近な方は交代人格を尊重してあげてほしい。誰も代わりになれないから交代人格が代わりになってくれたのだから。
あなたやあなたの大切な人を守ったのは交代人格なのだから。

交代人格の苦労が報われるためにも、わたし一人でわたしの時間を生き直して、たくさん自然に触れて毎日を楽しく過ごして、人にもなるべく接するようにして、新しい経験を恐れずに自分の人生を一から生き直したいと思っている。
そうしていくうちに世界との、人との距離感もまた掴めるようになると思っている。苦しいけれど、希望は捨てない、絶対に。
こんな人生を歩んでもなお生きて幸せになりたいわたしは誰よりも強いはずだから。



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