能面が笑った。
僕は彼の顔を知らない。彼だけじゃない、学生時代つるんだ悪友たちも子供の頃優しくしてくれた先生も毎日会っていた上司も、誰の顔も知らない。
ずっとグレーだった。
彼らとの会話、一緒にいた時間、確かに顔を見ているはずの瞬間を思い出そうとしても、ぼやけた視界に、塗り立てのコンクリートみたいな、のぺっとしたグレーしか思い出せない。口元は笑っていた気がする、目が綺麗だった気がする、パーツを思い浮かべる事はできるのだけど、どれもフィクションみたいで。彼らが本当にどんな表情をしていたのか、どんなバランスでどんなふうに表情筋が動くのか、僕は知らない。
ただ自分の感情だけで出来事を記憶している。
友人らといる時、温かい気持ちになったこと、明確に救われたこと、愉快だったことドキドキしたこと、それらは全て覚えている。
一番時間を共にしたそいつと、飲んで帰って、月を見上げている時、どんな風が吹いていたか。どんな湿度だったか。どんな靴を履いて俺たちの身長差がどれだけあっておまえがどんな声で笑ったか。全部覚えている。アーケードの入口に商店街の名前がペカペカと光っていて、俺らと一緒に笑ってるみたいだった。
皮肉なことに、おまえといる時は特に、僕の記憶には「人の顔がない」ことを痛感する。おまえの近況を聞いていると、いろんな人の表情が浮かぶ。顔も見たことのない、だけど名前だけは何度も聞いている友人たち。どんな顔でおまえに話しかけて、どんな顔でおまえの元を去ったか、なぜかそれは容易に想像できた。自分の記憶には存在しない「顔」が、おまえの話にはいつも溢れているんだよ。
呼応するように自分の近況を話そうとする。だけど僕はいつも、何も話せなかった。だって誰の顔も覚えていないのだから。自分の感じたこと、自分の考えていることしか話すことができない。そんなの聞いちゃいないだろう。何より、おもんないことを話したくなかった。おもろい話には他人の様相がつきもので、僕は学生時代それを「あいつがこう言っていた」「あいつがこんなバカをやった」で乗り切っていた。しかし大人になった今、そんなわかりやすいバカを晒してくれる人など日常におらず、そもそも僕は日常生活において関わる人たちと友人のような距離で接することがなく、彼のように馬鹿馬鹿しさや悲しさを表現することはできないのだった。そのことが少しばかり、惨めだった。だけど僕は、心のどこかで、次こそはこいつのように他人の顔を鮮明に記憶して、他人の表情をたっぷり語れるような、そんな日々を送れると信じているのだと思う。その証に、彼の話を聞くのも彼の隣にいるのも苦痛ではなかった。耳から言語情報として入ってくる他人の表情を色とりどりに並べ、人間はうつくしいな、と今日も思うのだ。人間はかなしくて、うつくしい。僕は彼を通じて、そのことをわかっているのだから、きっと大丈夫だ。