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スピリチュアル依存と中毒②

 やたらに強さを誇示したり、愛情を誇示したり、
 悲しみの感情を誇示したり、人はさまざまなものを誇示する。
 フロイトの説明を待つまでもなく誇示されたものは欠如を表す。
 つまり誇示された強さは弱さの裏返しである。
 誇示された愛情は冷たさの裏返しである。
 「自分なり」にこだわって、
 周囲の言うことに耳を貸さない人は実は自分がない

 世の中には、
 そうした裏返しにされたものだけを表現しながら生きている人がいる。

 セーターを裏返しに着ていたら人にはどう映るか。
 人にはその人がセーターを裏返しに着ているということがわかる。
 着ている本人にはわからなくても、
 それを見ている人は変な人だなと思う。
 それと同じで、裏返しの感情を表現しながら生きている人を見て、
 私たちは何となく違和感を覚える。

 その人とは何を言っても通じ合わないような気持ちになる。
 その人とのあいだにを感じる。

 そういう人たちに「あなたは間違っている」と説得するのは困難である。
 そのような人はいったん自分に都合の良い思い込みをすると、
 それを訂正するのは極めて困難である。
 それはその人に自分がないからである。

 その人にあるのは劣等感だけである。
 その人が劣等感に支配されているからである。
 誰にでも劣等感はある。

 話し合いができる人は、その人自身が劣等感をコントロールしている。
 しかし自我が劣等感にコントロールされている人は、
 友人であれ、親であれ、先輩であれ、
 とにかく他人の言うことに耳を貸さなくなっている。

 難しく言えば、自我が劣等感に同一化している。
 その人イコール劣等感なのである。
 彼らは人の言うことに耳を貸すのが怖いのである。
 それは自分が間違っていると、
 心の奥底のそのまた底で知っているからである。
 耳を貸したら現実と直面しなければならない。
 現実に立ち向かわなければならない。
 自分は敗北者だと認めて、人生を改めて出発し直さなければならない。
 自分の非を認めない人々は、その恐怖に怯えている

 ~略~
 自分の非を認めることができないのは、愛情を求めているからである。
 自分の非を認めない人は、
 同じように自分の非を認めない人と一緒にいると心地よい。
 「世の中間違っている」と一緒に言ってくれる人といると心地よい。

 一緒にいて心地よい人というのは、
 喉が渇いたときの塩水のようなものである。
 会っていれば会っているほど、生きるのが辛くなる。
 自分にとって心地よい人とは自分を地獄に連れて行く人である。

 しかしその時その時は、一緒にいることが最も楽なのである。

                 by「自分の弱さとどうつきあうか」
                  加藤諦三著 ダイヤモンド社:刊

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他人とのコミュニケーションの場では、情報交換はよくあることで、「どこどこのアレは美味しかった」「この買い物は失敗した」と言った、グルメや買い物、健康や生活全般に至るまで(はてや他人の品定めも)、口コミから得るものは大きく、なおかつ相手の趣味嗜好を知る上でも、役に立つ情報のひとつであることは、古今東西で違いがない。

けれど、そのように相手から語られる情報はあくまで情報であって、その情報に頼るかどうか・・・情報から得た内容を、自分の生活に取り入れるか否かは、聞き手が判断すべきことであって、情報提供者は、「お薦めだよ」「良いよ」と、せいぜい軽くプッシュするまでに留めておくのが、人間関係のマナーでもある。

けれど、時にスピリチュアル依存症の人は、多くの自己愛人間が示すのと同じように、相手に対して、自分が「良い」と思ったものを強要し、押し付けてくる傾向があったりする。

「あなたのためを思って」とか・・・
「絶対に、よいものだから」という風に・・・。

偽善の中に、欺瞞と相手への支配欲求が隠されていることに気づかぬまま。

相手がそれを拒否すると憤り、もしくは相手の拒絶にもめげずに「親切」はよくよく売られてくる。

なぜ、彼らはそうするのか・・・。よくあるパターンとしては下記の通り。

薦めた相手に、「これ、いいね」「教えてもらってよかった」と・・・そう言われ、感謝されることで、「自分の感覚が間違っていなかった」ということの安心を得たいのである。

つまり、彼らは、相手すなわち自分以外の他人の同意を得ることで、自分の正しさを「証明」したがっている。そして同時に、相手に対して「優位」な立場に立つことを欲している。

「あなたのためだから」と、無理強いをするのは、自分を証明し、優越を味わいたいがための行為とも言える。それだけ自信がなく、自分を保つ材料を自己の中に持っていないという証でもあるのだが。

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尊敬されたい、認められたい、他人に、すごいね・・・と言われたいのに、自分の中に、「すごいね」と言ってもえらるだけの素養を、何も持っていないということを、誰でもない当人が自覚しているから、同時にそれは、借りてきた知識や権威などの、他のもので代用しようという代償行為でもあるのだけれど・・・。(諺で言うならば虎の衣を借りる行為)

そこには、コンプレックスがあり、自らが何も所持せず、空っぽであると言うことを自覚する空虚感がある。自分は何も持っていない人間なのだ・・・という自信の無さ

でも、他人から認められたい、褒められたい、賞賛されたい、という気持ち。それは裏返しの感情。自信の無さは、自分が「良い」と感じたことへの疑惑、自分の感性に確証を持てず、他人の価値観を通して・・・相手の正誤のフィルターにかけて、その判断で「調べてもらおう」という依存めいた計算を誘致する。

そこには常にジレンマがある。相手の下す判定が、自分の感性を否定する結果だったら?・・・という畏怖

でも、相手が「これ、いいね」と認めたなら、その人よりも先に「良いものを見つけた」自慢になり、相手にそれを「教えられた側」になることでの優越性を味わえ、何よりも、自分が正しい判断をした(正しいものを選べた)証明となり、相手に対して影響力を持つことの出来る自分を確認して、その人のささやかなエゴイズムは満たされるのである。

しかし、それはすぐに不安にとって変わられる、とても小さな、一時的な満足にしか過ぎないのだが・・・。

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なんだか生きるのが辛いと感じたときには、
どこか今までの生き方が間違っているのである。
その今までの自分の生き方の間違いを直さないで、
辛さの原因を自分の外に求めてしまうと、いよいよ生きるのが辛くなる。
今の生き辛さはいままでの生き方がつくってきたものである。


上記に書いたような人物に、少なくとも私は過去、幾人かに会っている。狂信的な宗教の信者だったり、スピリチュアルヲタクだったり、一見普通の人だったり・・・

共通しているのは、彼ら彼女らは皆、他人に対して強い影響力を持ちたい、と欲している点であろうか・・・。

そうした人々は、今の自分、生活に満足をしておらず、彼らの言うところの特別な「能力」を持った、誰にとっても「特別」な人になりたいという願望を持っていた。別の自分になりたいという切望

それから、「他人に対して、良いことをしている」と思い込んでいる(思い込もうとしている)ところに共通点がある。ありがた迷惑なことをしているという自覚がないのもいえる所で。

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なりたいと思う理想の人物像を思い描き、憧れを抱くのはいいと思う。

憧れの人物が芸能人であったり、有識者であったり、身近な、尊敬できる人であったり、そういう「こうなりたい」と思える、目標とする人に出会えるのはいいことだ。そのような理想の人格像を思い浮かべられることも。

けれど、大事なのはその動機

 スーパーマンになりたい
 ウルトラマンになりたい
 仮面ライダーになりたい

・・・子供ならそこまでで良い。

しかし、肝心なのは、「何のためにそれらになりたいのか」「ヒーローになって、何をしたいのか」「何をしたくて、何故その力を欲するのか」だったりする。

でも、残念なことに、得てして多くの人は、力を誇示し、失われた自尊心を取り戻し、他人に優越を感じて、自己満足に浸りたいがために・・・おのれの野心とエゴイズムを満足させたいがために、他人を支配して、すべてをコントロールして、そうしたことに「利用」するために、力を欲したりするようである。

単純にサイキックに憧れる人、ヒーラーになりたいとか人を癒したいとか、人を救いたい、・・・と、たやすく口にする人もそう。

スピリチュアル依存の人は、そうやって、スピリチュアルを利用していたりする。

しかし、そのようなところにいる人は困ったことに、自分がスピリチュアルな思想を自己満足と自己弁護のために、「利用」していることにはなかなか気づけないところにいる。

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 甘えを満たされないと人は周囲の人を恨む。
 それがその人の弱さである。
 彼らはとにかく周囲から認めてもらいたい
 それだけに自分を認めない周囲の人々に対する憎しみは大きい。
 自分が求めるだけの愛が得られなくて、それが不満である。
 求めるだけの愛とは無条件の愛である。
 幼児が母親に求めるような愛情である。
 大人になってみれば、
 それはほとんど神経症者の求める愛と言ってよいかもしれない。

 単純に言えば彼らは皆わがままなのである。
 そのわがままがひどくなるのは、
 そのわがままの中に愛情欲求があるからである。
 自分のわがままが通らないことを、
 自分が愛されていないと解釈するからである。
 自分のわがままが通らないことを、
 自分が愛されていないと解釈するからである。
 だから甘えている人は怒りや恨みがひどい

 自分が望むほどには愛を与えてくれない相手を恨んでいる。
 自分が望むほどには自分を評価してくれない相手を恨んでいる。

 恨んでいるということは、
 相手を受け身の形で攻撃しているということである。
 相手を攻撃しているから、
 自分の非を認めることができないのである。
 悪いのは自分ではなく相手だと思ってしまう

 責任転嫁は攻撃であるという点を見逃すと、
 責任転嫁の心理を正しく解釈できない。
 自分の嫌いな人の攻撃を正当化するためのものが責任転嫁である。
 
 責任転嫁をする人は、
 「もっとオレを認めてくれ!」「私を認めて!」と、
 叫んでいるのである。

 人は周囲の人が好きなら、責任転嫁はしない。
 人は周囲の人が好きなら、突っ張らない。

 突っ張っている人は、責任転嫁をする人と同じように、
 「もっとオレを認めてくれ!」と叫んでいるのである。
 そして何よりも神経症的愛情を求めている。
 人を恨んでいる人は皆、神経症的愛情を求めている。

                   冒頭引用の本より

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こちら数年ほど前に書いた旧blogからの抜粋になります。そして「スピリチュアル依存と中毒③」に続く。

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