【小説】恋の成仏短歌9「思い出のバー」
一人暮らしを始めたばかりのあの頃の夢は、「行きつけのバー」を作ることだった。
誰を誘うわけでもなく、一人でしっぽりと飲む。これぞ大人のたしなみ!って感じで憧れてて。
と言っても、そのハードルはやっぱり高くて。10年経った今でもまだできないのだから、当時の私にそんなこといきなりできる訳もなく……
見つけたのは、近所のカフェバー。
昼はカフェ、夜はバーとして営業してるそのお店はちょっと照明が落ち着いてるけど、いつもほどよく賑わってて。一人でも入りやすい雰囲気だった。
初めの2・3回は緊張して、そわそわして、手持ち無沙汰で。ドキドキしながらスマホばっかりいじってたっけ。
それが勇気を出して4回・5回と重ねるうちに、少しずつマスターと話せるようにもなっていって。
カウンター越しのマスターと気兼ねなく会話できる行きつけ感。
これだ。これがずっと夢だったんだ。
嬉しいな。少しは大人に近づけたかな。
そう浮かれ始めた頃のことだった。
*
席もカウンターの「右から2番目」がなんとなく固定になってきたある日、右隣に見覚えのない男性が座ってきた。
「悪いけどこいつの相手してやってよ笑」
マスターにサービスのピーナッツを出されながら、そう言われた。マスターの昔からのお友達らしい。
見た目は40代っぽいけど、会社にいる40代の人たちと比べると髪型も服装も少し若い雰囲気。茶髪のパーマがよく似合っていた。
「うるせーよ笑」
ちょっとシャイそうにマスターに突っ込みつつ
「ごめんね?」
とこちらに優しく一言。
それがあの人との出会いだった。
初対面の男性を見ると、ついつい左手の薬指をチェックしてしまう。私だけじゃなくて同世代の女子はみんな同じはず!と謎の自負を持ちつつ、今回もしっかり確認。
そこには指輪があって、すぐに既婚だということがわかった。
40代だと、お子さんもいるのかな。
どんなご家庭なのだろう。
聞きたいことはいろいろあって、
「こんなところで飲んでて奥さま大丈夫ですか?」
と挨拶がわりに問いかけてみる。
場を和ませるつもりが、逆効果。
苦笑いしながらはぐらかされて、なんとも気まずい空気が流れる。
この手の質問はだめなんだと瞬時に察して、もう聞かないことにした。
現実から離れたくてバーに来てるのに、悪いことしたかな。当時の私にはそのへんのお作法がよくわかってなかった。今もよく、わかってないけど。
*
そこから彼には何度か会って、隣同士で飲む回数も増えていった。
仕事とか家族とか現実的な話はほとんどせず。
よく聞く音楽、最近おもしろかったテレビの話、おいしいお店の話……そんなたわいもない話ばかり。
楽しかったけど、触れちゃいけない部分がもどかしくなっていくのも事実で。
彼の正体を知りたくもなっていった。
多分、けっこう惹かれてたんだと思う。
「そろそろ奥さん誕生日じゃなかった?大丈夫?」
マスターがたまにぶっ込むことでもらえるヒント以外は、一体どんな人なのか。どんな悩みがあるのか。今、幸せなのか。全然わからなくて。
彼の正体はベールに包まれていた。
*
もう隣同士で飲むのが何回目になるのかも数えられないくらい、回数を重ねた頃。
いつもは彼がマスターと話し続ける中で私が先にお店を出る形だったけど……その夜は金曜日ということもあって、ついつい終電の時間まで盛り上がってしまった。
お酒もだいぶ入って、ふらふら。
目の前はぐわんぐわんしててマスターも心配してる。
今日が金曜日で本当によかった……とほんのり安堵しつつ、慌てて店を出る。
その日は、彼も一緒に。
「ちょっと終電やばいんで、急ぎますね……!」
そう言い残して先に駅に向かおうとすると、彼の手が伸びてきて。
「走らなくて平気?」
片手を握りしめられながら、
平然と聞かれる。
走らせたいのか、
走らせたくないのか。
矛盾した行動と言葉に苛立ちながらも、
どこか舞い上がってる自分もいた。
なんだろう、この感情。
酔ってるのかな。
左手の薬指だけは、
見て見ぬフリをして。
でもやっぱり臆病な20代だった私は、
見ないフリをしきれなくて。
少しずつ、そのバーに行く回数は減っていった。
「マスターに会いたいから」と言い訳をして行ってしまおうか?と今でもたまに思うけど。
気づいてはいけない感情に、
越えてはいけない線に向き合うのが怖くて「思い出のバー」としてそっと、しまい込んでいる。
なんでもないフリをして飲みに行くには、どうやら私はまだ大人になりきれていないみたいだ。
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