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「責任」の正体
最近は現場の支援に立つことよりもどうしても経営や運営に携わっている時間も増えてきました。
仕事の多くの場面で、「支援者」であることよりも「責任者」としての役割をまっとうすることが多くなります。
ただこの「責任」というのはものすごく厄介な言葉で、個人的にはあまり好きじゃありません。
よく言われる「責任の所在」というものに色んな人が振り回され、時に潰されたりするからです。
とは言え実際に今「責任者」とされる場面が増えているので、この言葉に向き合わないといけないわけです。
どうせ向き合わないといけないなら、逆にきちんと向き合って「責任」というものを整理して理解しながら用いないとそれこそ自分が振り回されたり翻弄されてしまいます。
自分自身が曖昧な理解のままこの「責任」というものを用いてしまうのはそれこそ無責任なので、ちょっと整理も兼ねて書いておこうと思います。
よく、管理職や経営層の界隈では、
・売り上げ責任
・採用責任
・任命責任
・育成責任
・業務責任
・経営責任
なんて言葉を耳にします。
誰が売上に対しての責任を持つのか、とか、採用した責任が、みたいに「コト」に対して責任の所在を明らかにしよう、みたいな言葉なんだと思います。
もちろんどの事柄にも責任は生まれます。
でも、これ結局誰がその責任の所在になるのかって話になったらよく分からなくなりませんか?
だって、「コト」には色んな人が携わっていていろんな判断を差し込みながら行っていきます。逆に言えば、目の前の利用者さんへの支援についても、そりゃ各々の支援者さんがある程度の判断を下して行っていますが、大体の場合は事業所ごとのある程度の方針に則って判断をするわけです。
「コト」に対しての責任は、突き詰めていけばいくほどその所在をどこに置くのか、の難易度が上がり、責任という言葉に振り回されるようになるんじゃないかと思います。
支援時の事故が起きたときは一体なんの責任が誰にどこにかかっているのか。
業務管理責任? リスクマネジメントの責任? 任命責任? 僕には一体何をどの角度から切り取っていけばいいのか分かりません。
対して「役割」に対しての責任、というものもあります。
役職者がなんの責任を担っているのか、という話ですね。
でも、これはシンプルに突き詰めていったら責任の所在は全部経営者に帰属するような気がします。
そもそもの構造として、経営者が一人ですべての責任をまっとうすることが出来ないからそれを分散して分担するようにしているのがそもそも組織体というものの仕組みの原理のはずなので。
ということはこれらを組み合わせてしまった時にはこんな事が起こります。
現場スタッフのトラブルに対して「管理者は何をやっていたんだ」と管理者の上の例えば課長が言うと、その育成責任は誰?ということになり、課長は更にその上の部長とかに「課長は何をやっていたんだ」という責任追及が起こるけど、でもその課長の育成責任や任命責任は?となる。その部長に例えば統括マネジャーみたいな人が「あなたは何をしていたんだ」となるけどそのマネジャーに対して役員が言う、さらにその役員に経営者が言う・・・。
これを辿っていくと結局トップの責任じゃん、つまり。ってことになるような気がするんです。
結局どこを切り取ってみても誰も責任がない、なんてことはなく、逆にどんな物事も最終責任はトップでしかない、という理屈しか残らない気がするんです。
そもそも責任って追求し合うものなんでしょうか?
「これは誰の責任だ!」って言っちゃうから責任というものに所在を置かなきゃならなくて、押し付け合うものになっちゃうんじゃないでしょうか。
何かしらの責任問題を明らかにしないといけないときって、大体トラブルなりミスが発生してそこに損害が生まれた時、な気がするんですが、そもそも人が関わっている以上は、完璧なことなんてありません。
必ず人がやることにはエラーが生じます。
実務だけでなく、マネジメントひとつとったって人がやることには間違いもミスも起きます。それに責任をひっつけて追求し合い始めたらキリがありません。
そこってむしろ責任、なんて曖昧なもので片付けるんじゃなくて本来は仕組みなりシステムを見直さないといけないはずです。
責任の所在をどうこう言う前に仕組みを速攻で改善することのほうがよっぽどか大事です。
さて、じゃあ責任って結局何なんでしょう?
「責任」ってそもそも誰かが誰かに追求するためにあるものではない気がします。
責任を「追求するもの」にしてしまうと、一番強いのは責任を何も担わない人、担っているものが少ない人、になります。
だから誰も責任を少しでも担いたくない、と避けるようになります。責任転嫁ってやつが起こりやすくなり、余計に責任追及の文化が強くなります。
責任、というのは持ち合う、というか「取り合う」という方がいいのかも知れません。
どこまでいっても責任というのは、「コト」や「役」についているんじゃなくて、それぞれ「人」についているものだと思うんです。
経営に対して責任を持ってやりたい人がリーダーにそもそもなっているんだったら経営全ての責任を取るつもりでいるのがリーダーのはずです。
多分、リーダーが他責であればそのメンバーも他責になります。
自責(自分を責める、という意味じゃなく自分で責任を担おうとする姿勢、ね)であれば、他者に責任をとらせるんじゃなくて、他者が不要な責任を担わないでいいように仕組みを創ります。だから自ずとそれぞれは自分の責任を自分なりに持とうとします。
なんか責任ってそういうものじゃないのかな、と思います。
追求し合うものでも細分化しながらいろんなものにくっつけるものでもなく、各々が持ち合って取り合うもので、さらに仕組みでなんとかなることはそれでいいんじゃないでしょうか。
究極的に言うと責任なんて誰にも結局取れません。
リーダーがスタッフの人生全て生活全ての責任なんて所詮はとれないじゃないですか。利用者さんの人生の責任も取れないじゃないですか。
だったら、それぞれで取り合えるものをそれぞれが取る、を基本に仕組みを創るほうが実体的だな、というお話です。
責任、というものについてのはずがなんだかリーダーシップ論みたいになってしまいました。