作法やテクニックで支援はできない
支援をしていく上で絶対に見ておかないといけないものがあると思います。いや、支援だけじゃないかな?
当たり前のことですが、それは「解決しなきゃいけない事の正体」と「それに向けてしなきゃいけない事とむしろしてはいけない事は何か」です。
当事者の方が抱える課題は様々で、そこを支援していこうというんですからそうそうテンプレート的に「こうしておけばいい」という万能なマニュアルはありません。
これは僕が極端なものの見方をしてるだけなのかもしれませんが、なんというか型や作法みたいなテンプレートっぽいものに沿おう、沿わなきゃならないかのようにしてしまってる事って少なくないような気がしていて。
例えば、
当事者の方に丁寧に接することは確かに対人援助の基本姿勢として大切な作法だと思います。でも相手によってはそれにより緊張を増したり警戒を増したりする事があります。
逆に例えば知的障害を持たれているから、幼い扱いをすればいいのか、というのは議論にはならないと思うんですが、相手とのコミュニケーションの際に相手ごとに抑えておかなきゃいけない部分と逆にしちゃいけないものは、必ずしも表面的な作法や型通りにはいかない部分があるかもしれません。
プライバシーへの配慮は必要です。ただ、僕らの役割って結構プライバシーにそもそも踏み込まないと「解決しなきゃいけないこと」に辿り着かないことは少なくない気がするんです。
無差別に踏み込む必要はないと思いますが、ここってむしろ僕ら支援者ってどうやってそこを触れていくのか、ということが支援の肝になるんじゃないかと思います。
でも、プライバシーの問題だから、と言って踏み込まずに本人が差し支えなく晒してもらえる部分だけで課題解決を図ろうとしてしまう、という場面は少なくないんじゃないでしょうか。
面談であれ伝達事項であれ、僕らは当事者の方にしばしば伝える、ということをします。でも「伝える」という所作が優先して、「伝わっているか」の確認作業をしていないことって少なくない。
言葉として形式的に伝えればいいのか、そこに含まれている「伝えたいこと、理解してほしいこと」が伝わっているかどうかは受け手次第です。
特に、対人援助の分野では受け止めることにやりにくさを持たれている方も多いので、伝えたかどうかの所作よりも伝わったかどうかの確認や伝導率を認識しておくことの方が大事だったりします。
ほめる事はもちろん大事だと思います。ただ、「褒めればいい」ではない気がします。
自己肯定感が著しく低下している方には時として褒めることがむしろ自己肯定感を反発的に下げてしまう事があります。もちろん褒めることで有頂天になってしまい地に足がつかなくなるタイプの方もいるかもしれません。
自己肯定感を上げるのに、効用感を高めるには褒める以外の方法もあります。
特に他意なく褒めるをすることを非難しているわけじゃありません。ただ僕らの対象にはそれを受け止めにくい方もいるので、そこについてはどうしても考えざるを得ないような気がしています。
優しく接することって僕らの仕事の基本姿勢的な感覚もあるかもしれませんが、物腰の優しさ=優しい?
前にもnoteに書かせてもらいましたが、優しさには深度もベクトルもあります。
僕らが支援をする目的はどこまでも、相手が抱える課題を解決に向けていくことです。
そしてそのための介入をするのが僕ら支援者自身なので、僕らの起こす行動、起こさない行動は当然支援の結果への影響が生まれます。
しなきゃいけないことをしなければ、どんなに外側できれいな型や作法を調えても課題の解決には向かいません。
逆にしてはいけないことを明らかにしておかないことで、そこを踏みしめてしまえば下手したら課題が増えるかもしれません。
僕らが支援で見つめなきゃいけないのは、課題の本質の部分です。根っこの部分です。
僕らが支援をしていく上で自分達を見返さないといけないのは、それに対してしないといけない事は何で、しちゃいけないことも何なのか明らかにしておく事です。
作法や型、いわゆるテクニック的なものはそこが分かった上で用法用量を守って使用するものであって、先に方やテクニックありきで支援を見てしまうと、身体障害があるから◯◯の対応をする、知的障害があるから◯◯の関わり方が基本、精神障害があるから◯◯な態度で接して、発達障害があるから◯◯にしとけばいい、みたいな誰にアジャストしているのかさっぱり分からないテンプレートが出来上がっていくような気がしてならないんです。
もちろんあくまで「基礎」知識、みたいなものとして覚えておくといいものはたくさんあると思いますが、僕らはそこを見て支援をしていちゃいけません。
見ているものの違いってすごく大きな差を生みます。
支援を行うときに、視点合わせは絶対に必要だな、と感じた話でした。