本当はありがたい当たり前
最近では当たり前のことは
本当はありがたいことなんだから
感謝を忘れないようにしようと
言われている。
でも当たり前のありがたさに
気づかなければと思うあまり
いつの間にか喜びに慣れて
最初は感動していたことが
もはや当たり前になって大して
喜べない自分に気づいた時
「最初はこれだけでもずいぶん
ありがたかったのに」
「感謝できない自分はなんて不義理なんだろう」
って、つい自分を責めてしまう。
でもかつての幸せが
時とともに当たり前に変わってしまうことは
実は悪いことばかりじゃない。
なぜなら大きすぎる喜びは
苦しみと同じくらい人を疲れさせるから。
「喜びで人が疲れるはずがない」
「むしろ癒されるわ!」
と思うかもしれない。
しかしテレビとかでよく見かける
「ファンが芸能人と会ったら?」
系のドッキリを思い出して欲しい。
テレビや舞台で遠くから
眺めるしかできないはずの
憧れのあの人と実際に会うことは
ファンからすれば奇跡のような幸運だ。
しかし奇跡のような幸運に出会った人のテンションは
「ちょっと待って!? 無理無理無理!」
可愛すぎる、カッコよすぎると大興奮で
激しい動悸や息切れをもよおす。
感動のあまり泣いてしまう人も居る。
これは単発の幸せだから
今日限りのこととして後に響かないけど
もしこの憧れの人と結婚することが夢だったら
会ってちょっと話すだけで
「ちょっと待って!? 無理無理無理!」
になってしまう相手と同じ家で暮らすなんて
刺激が強すぎて
それこそ無理無理無理!だ。
恐らく自分にも思い返して見れば
将来が不安で眠れない夜と同じくらい
夢や仕事や恋愛の進展が楽しみすぎて
考えても意味の無いことを
グルグルと考えてしまい
眠らなきゃいけないのに眠れなくて
疲れるという経験があるはず。
通常は「当たり前」と呼ばれる
感情の麻痺・鈍化のおかげで感情の刺激に慣れて
そのうち話せることは普通になり
次の進展を望む。次の進展が来たら
またその刺激に慣れて次の進展を求める。
そうして順調に「あって当たり前の幸福」として
心に馴染ませていく。
しかしこの「当たり前」に
なっていく現象が無ければ
夢や恋愛を叶えるまでの感情の起伏に
一喜一憂しすぎてしまい
一つ前の幸せを通常値として
より大きな幸福の状態にシフトする
ということを困難にしてしまう。
例え喜びでも激しすぎる
感情のたかぶりは
平静な思考状態を奪い
心を疲れさせる。
だから人はかつて奇跡のようだった
幸福にもいつかは慣れて
あって当たり前のものとして
平静に受け取れるようになる。
それは人が大きすぎる感情のふり幅に
心を乱されず正常に活動していくために
必要な機能だから
もうかつては嬉しかったことを
以前と同じテンションでは喜べない自分を
不義理だと責めなくていい。
眩いほどの幸せが
そのうち当たり前に変わっていくのは
輝きを失ったのでも色あせたのでもなく
自分の人生に定着した証拠で
自分の人生にしっかりと
根付いたものだからこそ
自分だけの特別な幸福として
大切に守っていこうと
そのたび思い直せれば十分だから。
🌸最後までご覧くださり、ありがとうございました🌸