見出し画像

マナーの崩壊は核家族から始まった

「社会の病は、境界線の喪失から始まる」

W.I.S.E.

かつて、人間の生活には明確な境界線があった。

パブリックな場では、 背筋を伸ばし、 言葉を選び、 振る舞いを律した。

プライベートな場では、 肩の力を抜き、 素の自分を出し、 くつろぐことができた。

この境界線が、私たちの社会性を育ててきた。
この区別が、私たちの心を守ってきた。

しかし、この境界線の侵食は、 実はSNSより前から始まっていた。

それは、核家族化の時代からだ。

大家族の時代を考えてみよう。

子どもにとって、祖父母とは何だったか。
血は繋がっていても、少し「他者」だった。
親との関係とは、明らかに違う距離感があった。

その家庭内に、小さな「パブリックスペース」が生まれていた。

祖父母の部屋に入るときは、ノックをした。
祖父母の前では、言葉遣いに気をつけた。
祖父母のルールを尊重した。

これが、社会性の最初の訓練場だった。

しかし、核家族化が進むと何が起きたか。

家全体が「プライベートスペース」になった。
言葉遣いは乱れがちになった。
行動は自己中心的になりやすくなった。
ルールは単一化されやすくなった。

家庭内の「小さなパブリック」が失われていった。

そして今、さらに深刻な境界線の侵食が進んでいる。

その名は、SNSだ。

SNSとは何か。
それは、パブリックなのか、
プライベートなのか。

考えてみてほしい。

自室でスマホを操作する。
これは、プライベートな行為だ。

しかし、その内容は世界中に公開される。
これは、極めてパブリックな結果を生む。

このパラドックスこそが、 現代人の混乱の源泉だ。

プライベートな感覚で、 パブリックな発信をしてしまう。

家族だけに見せるはずだった写真が、 知らない誰かの目に触れる。

友人にだけ伝えるつもりだった愚痴が、 潜在的な雇用主の判断材料になる。

恋人だけに見せる感情が、 不特定多数の餌食になる。

この現象は、核家族化とSNSが 相乗効果を生み出した結果と言える。

核家族の中でパブリックとプライベートの 区別を学ぶ機会が少なくなった子どもたちが、 SNSというさらに境界線の曖昧な世界に放り込まれる。

パブリックとプライベートの混同は、 さらに深刻な問題を生み出している。

それは、依存症だ。

SNSは、プライベートな空間にいながら、 パブリックな刺激を与え続ける。

「いいね」という名の報酬。
「シェア」という名の承認。
「フォロー」という名の肯定。

これらは、強力なドーパミンを分泌させる。
そして、依存症の回路を強化する。

プライベートな空間にいながら、 パブリックな承認を得続ける。

この新しい体験は、 かつて人類が経験したことのない依存を生む。

そして、この依存は衝動を生む。

考える前に投稿してしまう衝動。
確認する前にシェアしてしまう衝動。
熟慮する前に反応してしまう衝動。

この衝動的な社会は、 健全な判断力を失わせる。

海外では、すでに対策が始まっている。

フランスでは、13歳未満のSNS利用を禁止する法案。
イギリスでは、16歳未満へのアルゴリズム推薦を制限。
アメリカでは、未成年のデータ収集を規制。

彼らは、この境界線の侵食に、 法的な歯止めをかけ始めたのだ。

では、日本はどうか。

残念ながら、規制の動きは鈍い。
「自己責任」という言葉の下、 子どもたちは無防備にさらされている。

私たち個人に、何ができるのか。

まず、家庭内に「小さなパブリック」を 意識的に作ることだ。

来客を定期的に招く。
地域の集まりに参加する。
異なる世代との交流を持つ。

そして、SNSの使い方を見直すことだ。

使用時間を決める。
使用場所を限定する。
使用目的を明確にする。

そして最後に、代替手段を見つけることだ。
リアルな対話。
リアルな承認。
リアルな満足感。

境界線の喪失は、時代の流れかもしれない。
しかし、それは必然ではない。

意識的に境界線を引き直すことで、 私たちは社会性を取り戻せる。

パブリックとプライベートの境界線を守ることは、 自分自身を守ることでもある。

そして、それは次の世代も守ることにつながる。

境界線の意味を、今一度考えてみよう。

いいなと思ったら応援しよう!

大竹純也:W.I.S.E.
サポートをご検討くださった方。 誠にありがとうございます。 私は特にこの社会の自殺率を下げたいという目標を掲げています。