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OR010「Wall of Sound(ウォール・オブ・サウンド)」、オールディーズリバイバル
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◯Be My Baby(1963)
今回のテーマは曲ではなく、世代を超えて何度も復活した音楽制作手法です。
『ビー・マイ・ベイビー』は、その手法で作られたものであり、とは言え、それとは知らなかった頃から僕が世界で一番好きと思い続けている曲です。
オールディーズ・リバイバル・シリーズの初回『アイドルを探せ』は、その手法を取り入れたカバー版があったゆえ、取り上げました。
加藤和彦さんが岡崎友紀さんをプロデュースしたもので、その音に独特なものを感じたから、とてもユニークだと思ったからでした。
そう、思ったのは実はこの曲よりもむしろ、収録されたアルバムのタイトル曲『ドゥー・ユー・リメンバー・ミー』に対してでした。
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◯ Yuki / ドゥー・ユー・リメンバー・ミー (岡崎友紀 、1980)
エコーを効かせ、鈴の音?で、なんだかキラキラ感があり、ずっと忘れられませんでした。
個人事業主2年目になる2022年の年初、ようやくレコードと、その曲を含むコンピレーションアルバム「音壁JAPAN」のCDを手に入れたことで、僕の音楽世界が変わりました。
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「音壁」… 「ウォール・オブ・サウンド」という音楽制作手法をはじめて知ることになったのです。
開発したのは、第一次ブリティッシュ・インベイジョンからアメリカの防波堤となった四天王の一つ「フィレス・レーベル」の社長兼音楽プロデューサーのフィル・スペクター。
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「ウォール・オブ・サウンド」はまだ録音設備が古く、多重録音などはできないことで、多くの曲が、録音された音に迫力が足りなかった時代に、それを克服した制作手法でした。
スペクターが開発した当時の特徴は、重奏… オーケストラのように同じパート(ギターとかピアノとかベースとか)を複数人が演奏し、いろんな楽器をもちい(音数の多さ)、一つ部屋に集め録音し、さらにエコーをかけて再録音することで作り出された厚みのある音… だと僕は思ってます。
学生のころから「このキラキラ感はなんだろう?」と思う曲が何曲もありました。
特に感じたのは、1981年、高一の時にリリースされた、大瀧詠一さんの「A LONG VACATION」に収録された『君は天然色』『恋するカレン』。
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ナイアガラ・トライアングルvol.2に参加後に作られた佐野元春さんの1982年リリースの『SOMEDAY』。
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たくさんの山下達郎作品。
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達郎さん、佐野元春さんは、とても大瀧詠一さんよりと言えます。
ナイアガラ一派と、ここではあえて言います。
「はっぴいえんど」目線で見ると、対立軸として考えられるのは細野晴臣さん。
細野さんも「はっぴいえんど」結成前からフィル・スペクター作品に関心が高かったと、過去にラジオ番組で大瀧詠一さんが言ってたのですが、彼もまた、ウォール・オブ・サウンドをプロデューサーとして取り組んでいました。
それが、加藤和彦さんより一年前の1979年、テクノポップとして注目されたシーナ&ザ・ロケッツ『ユー・メイ・ドリーム』だった… と、「音壁JAPAN」を作ったスタッフのみなさんは考えていたようです。
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それ以前にも、
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1975年のブルース・スプリングスティーン『Born to Run』、
1977年のシリア・ポール『夢で逢えたら』、
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1979年のELO『Confusion』、
1980年のブルース・スプリングスティーン『Hungry Heart』に感じました。
それ以降では、
1984年のアラン・パーソンズ・プロジェクト『Don't Answer Me』、
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1985年のビーチ・ボーイズの『Getcha Back』、
1989年のDION『Always in the Rain』、
同じく1989年のELOのジェフ・リンがプロデュースしたロイ・オービソンの遺作『You Got It』
などに感じたのですが、調べてみると、やはり制作の段階でウォール・オブ・サウンドを意識し、目指していたことがわかりました。
今後、オールディーズ・リバイバル・シリーズでは、彼らをスペクター・フォロワーと呼んでいきます(DIONは、スペクター自身が尊敬していた存在で、リンクを貼った曲はプロデューサーがウォール・オブ・サウンドを意図したので、DIONは除きます。あとロイ・オービソンも)。
もっとも、後年のフォロワー達の時代には、録音できるトラックが増えていき、シンセサイザーがあらわれ、値段もどんどんこなれていき、コンピューターを使用したデジタル環境が整ったりと、録音設備が日進月歩でしたので、スペクターの手法通りにすることは制作コストが非常にかかることからやらなかったでしょう。
実際、フィレス・レーベルが終焉を迎えたのは、OR006で取り上げた、Ike & Tina Turner『リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ』のかけた、制作費に見合う売上を、アメリカであげられなかった事が大きいと考えられています。
そのためフォロワーたちの作ったウォール・オブ・サウンドは、エコーをたっぷり効かすとか、鈴やカスタネットの音を加えるとか、重奏を効かすとか、スペクターの手法のエッセンスのいくつかを取り入れ、あとは独自アイデアを盛り込んで、コストパフォーマンスを考え作り上げたのではないでしょうか?
いまだ勉強中なのですが、スペクター・フォロワーは、フィレス・レーベル全盛期の1962〜1966年ころすでに現れていて、その代表的人物はビーチ・ボーイズの頭脳的存在ブライアン・ウィルソンと、フォー・シーズンズのプロデューサー であるボブ・クリューだと、今のところ、思っています。
『ビー・マイ・ベイビー』がなぜ入ってないの?
2020年秋に映画「メイキング・オブ・モータウン」鑑賞後、モータウンの作品集を手に入れ、勉強し、驚いたことは「音楽映画自分史」で書きましたが、それから1年3ヶ月後にようやく謎解きができました。
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『ビー・マイ・ベイビー』が大好きだったことで、音楽世界が激変したのは僕だけではもちろんなくて、ブライアン・ウィルソンにとってもそうだったようです。
知ってる方は多く、「何を今更」と思われると思いますが、彼は『ビー・マイ・ベイビー』を完璧なポップ・ソングと考えていたそうで、以後の人生で、それを超える作品を作ることを目指したそうです。
『ビー・マイ・ベイビー』ではじめて受けたウォール・オブ・サウンドの音に仰天し、フィル・スペクターをたずね、レコーディングを見学さけてもらい、技術を自分に取り込もうと考えたのだそうです。
そしてすぐに『Be My Baby』のアンサーソングとして『Don't Worry Baby』を作り、ロネッツの『Be My Baby』の次の曲にと、フィル・スペクターに持ちかけたそうです。
しかし、残念ながら叶わず、男性を主人公にした歌詞に作り替え、1964年にビーチボーイズの曲として、シングル『I Get Around』のB面としてリリースしたのだそうです。
ちなみに『I Get Around』に関して。
同年1月にはじまったビートルズの全米席巻(第一次ブリティッシュ・インベイジョン)を阻み、はじめてビーチボーイズが全米一位になった記念的な曲です。
話があちこちに飛び、長くなりました。
ウォール・オブ・サウンドは僕にとってとても関心のある技法で、今後も深掘りし続けたいテーマです。
✨ **「夢に挑む還暦男を応援してください!」✨
みなさん、こんにちは!
僕は2024年9月からnoteで発信をはじめました。
動機は、2026年4月にスタートする夢の挑戦「自転車での日本一周」を実現させるためです。
還暦を迎える今年、2025年。
僕はこれまで調べ、実践し、効果を感じてきた健康術をnoteで公開してきました。
また、日々のフィジカルワークを最大限に活かし、体力・精神力を鍛錬し、「ココロとカラダをハッキング」で発信してきた僕の身体テクニックとの相乗効果で、ジュンツカ・クエストのチャレンジの集大成として日本一周に挑みます!
「還暦を迎えても体力で勝負できる」ということを証明する機会でもあります。
この挑戦を実現するために、僕は60歳になる今年6月、年金の繰り上げ受給を申請します。
「受給する年金を使って、初老がカラダを使って夢を叶える」という少し珍しいスタイルで挑戦する様子を発信していきたいと思ってます。
この挑戦に共感してくれる皆さん、「チップで応援する」ボタンを押していただけるとうれしいです。
今年の1/6には、ようやく資金計画を立て、少額ずつ積み立てを始めました。その様子は「仮想自転車日本一周」シリーズで報告していますが、これだけでは十分な資金とはなりません。
還暦男の挑戦がどこまでいけるのか、ぜひ応援していただきながら見届けてください。
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