ヘーゲル 精神の現象学 100分で名著 読書メモ
ヘーゲルの特異な思想は、真理は社会の中にあるとしたこと。それまでの哲学者は真理は(個人の中にあるとして)一人で考えていた。弁証法という他人を必要とする真理の探究はヘーゲルが初。
abstract 人類の歴史は自由がしだいに実現されていく歴史である。中世から続いた神の信仰から解き放され(キリスト教・身分社会からの解放)、自由を自覚した個人による社会が生まれる。
それまでの哲学者はあくまで「私」つまり個人で真理を導こうとしていたが、ヘーゲルは「私たち」のつくる社会における真理をダイアローグ(対話)により導くこととした。価値観は人により異なるので、社会は常に対立を生むが、互いに赦し「相互承認」することにより良くなっていく(止揚)。
ヘーゲル(ドイツ)
精神の現象学
当時は危険思想の持ち主とされた。常識を覆す考えの持ち主(支配層、権力側には都合が悪い。彼は全体主義的な思想家である!)
社会に対立が生まれるのは近代から。近代以前のヨーロッパの国々は身分制度があり社会は安定していた。役割と伝統的価値観が固定されている社会は安定する。考えないで済む。身分制の古代ギリシアのポリス。自由は無い。
現代社会の対立と自由が精神の現象学のテーマ
ヘーゲルは矛盾・対立・否定を突き詰めて考えた。社会から矛盾や対立はなくならないという前提で、矛盾や対立こそが真理とした。真理は主体であり、ゆらぐもの、変化していくもの。共有可能なものを真理とした。
意識の経験の学び
正しさをつくっていく過程は、時に傷つきながら学び、自己否定しながら、今の自分でないものになること。
弁証法
テーゼ
アンチテーゼ
アウフヘーベン
螺旋状に発達する。真理に至るための方法論
矛盾する二つ。ともに完璧ではない。ともに悪くもない。
それら二つから止揚に至る道筋。
二者択一のトレードオフが避けられない時の考え方。
生きる上での価値と目標を育てる。
実存の問い。社会の問い。
廃棄することであり、保持することでもある。
自分の知を否定される矛盾に耐え抜き、より高次の知を生み出していく。
妥協ではない。折衷案でもない。普遍的価値へ
(ヘーゲルの思想は後にマルクスの共産主義革命の思想的基盤となった。)
自他共に認める価値の追求
例えば、これこそが教育だ、これこそが文学だと、本気で関わることの尊さを共有する。価値・事そのもの。
歴史的背景として、都市が現れて、職業が新たに生まれ、自由に生きる人生選択が可能になった。
都市で文学・哲学・芸術が生まれた。
承認論と主奴の弁証法
自己意識を持つと他者の制約を排除し「私」の意のままにしたいと思う。互いの争いから主従関係となることで安定に至る。
主奴の逆転現象
・奴隷は主人に隷属する。では、主人は自立した存在なのかという問い。
・主人はひとりでは生活できなくなる。奴隷に依存してしまっているのではないか。主人だけでは日常生活(衣食住)について、もはや何もできない存在。
・奴隷は労働を通じて自立した存在となる。しかし、奴隷には思想や移動の自由はない。
・主人は生活には不自由でも奴隷の自立を承認していない。主人と奴隷の間にある非対称性が問題。
自立のために必要なのは、人と人との関係性が対称性であること。とはいえ、相手が自分を支配しようとしてくることには抵抗しなければならないので、相手の自立性を一定程度は否定しなくてはならない。その逆で自分自身も一定程度、自立性を否定しなくてはならない。精神現象学では自由を実現するための相互承認のあるべき姿を論じている。
自立の真理は非自立 依存の真理は非依存
これらのように真っ向から対立したものを統合する思考法が弁証法による統合。
21世紀の日本では、新自由主義による自己責任という思想が広まった。しかし、震災やコロナを経て、自己責任では立ち行かないことを学んだ。他人をケアすることが、自力であるという、ヘーゲル的な反転思想に光が差している。つまり、他者への依存を排除し、自分で全てを司るという思想ではなく、他者と共存し安心や安全を育むケアこそが自立である。
このようなヘーゲルの反転思想が、マルクスやレーニンの革命思想を生んだという背景がある。ヘーゲルの既存の社会を疑うという弁証法は、混沌とした現代社会にも学ぶべき価値がある。
精神とは何か。
ヘーゲルによるドイツ語の精神の概念は、心でも霊魂でもない新たなもの。ヘーゲルの精神とは、学問、政治、芸術、宗教など人間だけが行う社会活動の総称。
本質的に言えば、精神は真・善・美の追求のこと。
これらは個人で決めるのではなく、あくまで社会の中で成立するもので、「私たち」という主語により真・善・美は規定される。
しかし、これらは同じ時代の同じ社会でも個人個人で考え方が異なり衝突する。ダイアローグにより止揚が生まれ、新たな真や善や美が生まれる。
精神は時代とともに変わり、社会により異なる価値観。
ヘーゲルは「私」であることは「私たち」であることと切り離させないと考えた。画期的。
・デカルトの「我思う、故に我あり」という個人主義の哲学であった。
・カントの超越論哲学は理性を実社会から切り離して、普遍的に証明しようとした。(個人の考え)
・ジョン・ロックの経験論的な哲学もあくまで個人の中に閉じていた。
・ホッブスの社会契約論も万人の万人による闘争という考えも個人が基準。
ヘーゲルの思想は、理性の社会性。
「私」ではなく「私たち」。他者との関わりで成長していく精神。ヘーゲルは過去の哲学者による「私」が考えを持ち、他者と関わるという考えを斥けた。
「私」が「私」であるためには、「私たち」の一部として「私」があると考えた。私と私たちは切り離させないという概念で精神という言葉が生まれた。精神とは社会の中で個人の価値観が対立しながらも統一されている状態。
個人どうしの対立を調停し、他者と自由な協働関係を結ぶことを精神とした。
絶対的実体とは、時代や地域ごとで一般的妥当性をもつ価値観や規範が生まれていることを指す。
ヨーロッパではカトリックを信じ身分制度を疑わない時代から、近代になりそれに違和感、距離を置く考えが生まれてきた。それをヘーゲルは疎外と呼んだ。
マルクスの疎外とは違う概念。
むしろ自由への扉を開くもの。
伝統的価値観の否定。
疎外を可能にするのは、教養だとした。
私ではなく「私たち」が、より良い社会を目指そうとする意識のあり方が教養。
国家は「国権」として自由を制限して秩序のある社会を目指す。
国民は「財富」として自由に富を増やそうとする。
両者は対立しつつ顛倒し相互依存している。
例)
人々をまとめようとする政治家が、本音では私腹を肥やそうとしていたり、金儲けを目指していた企業家が、高機能の製品を普及させて便利な暮らしを提供し社会貢献していたり、それぞれ対立する規定性へと顛倒されていく。
純粋な教養は、絶対的な善や悪という価値観は、それぞれの立場や見方により異なるから、有限であるという立場。
精神(主語が私たち)は、絶対的で普遍的な顛倒であり、現実と思想を顛倒し、現実と思想から疎外するものである。それら全てを包括して純粋な教養と呼ぶ。
エスプリに富んだ会話
常識に懐疑的で、相手を論破することを目的とした議論。正しさは二の次。議論のための議論。ヘーゲルはその会話を自己欺瞞、自分に対する嘘として良しとしなかった。
近代社会は伝統から自由となったが、価値の顛倒が起こり不安定となる。かといって古代社会を理想として文明を排除した禁欲生活に走るのも良くない。再動物化という病理。
真理への恐怖
今までの自分を捨てなくてはならないという不安。
他者と共有可能な客観的な知を見つけ、論破ではない形で共有をはかる。
啓蒙の意識
教養は懐疑的な思考を行い、社会の常識を鵜呑みにしない態度であること、しかし、自由を守るためにはある程度の規則が必要。
例)
キリスト教を妄信する人々を科学的エビデンスで説得する「教養」。
地動説や進化論は神への冒涜という考えを否定する「教養」。
啓蒙と信仰との戦い
伝統知の否定
神や信仰の否定
信仰により思考停止された当時のヨーロッパの人々に対する啓蒙。
ただし完全な否定ではない。どうしても信仰を科学で代用できない。
信仰には部分的には間違っている要素があり、そこに関しては改めていくべき。
真理を突きつけて行う啓蒙は、非真理となり、非理性となる。
その啓蒙には自己反省が欠けている。
自然科学的真理を特権視する態度は良くない。
誰かを信頼することで知を共有できる。知にとって信頼は重要な態度。
信頼による知のあり方をふまえないと、相手から信頼されない。
例)
自民党が批判されつつも第一党なのは、多くの日本人が伝統的な価値観を信頼しているから。
例)
教会ではキリストの血として赤ワインを分け与えることがある。
科学的には赤ワインは血ではないがメタファーとして信者も分かっている。
この信仰の行為を非科学的と批判しても、理解は得られない。
啓蒙の絶対的実在は空となる。
啓蒙はエビデンスを真理とするが、真理では信仰により救われている人を絶対に救えない。
それは私たちにとって正しくない。
エビデンスでは、人生の意味や愛や芸術や国家や民主主義を説明できない。
ヘーゲルは、こうした人間的な次元を精神と呼んだ。
信仰は伝統知。
精神とは「私たち」を主語とする。
弁証法は矛盾を大切にする。
信仰も啓蒙も、互いに譲らねばならない部分がある。
啓蒙する側が、信仰する側から信頼されようとしない態度で啓蒙しようとするのは間違っている。
啓蒙は科学的であるがゆえに、
啓蒙は有用性へと堕落した。
現代社会に潜む問題は、有用性つまり金や権力を得ようとする社会となってしまったこと。
失って分かる信仰の持つ大切な意味。
究極の自由は混乱しか生まない。
ファクトチェックでは分断は解決しない。
教団化する人々
同じ思想の仲間が集まって、それぞれ互いに罵り合う。
分断された社会。
人は有限な知しか持ち得ない。
誰もが主観で生きている。
衝突は避けられない。
そこで不和に対する耐性が必要。相互の信頼も必要。
良心
皆にとって正しいと信じられる行為をすること。その行為が正しいと思っている根拠を説明すること。
相手に対して、自分がどのように考え、その考えに至ったのかを説明すること。
道徳的な天才
神や権力に頼らず、自ら正しいと判断できる才がある人。
しかし、良心が正しいとは限らない。他から評価されるものだから。
自分が正しいと思っていても、他者からそれが正しいと評価されるかどうかは、互いの対話(ダイアローグ)により決まっていく。
ヘーゲル哲学は過去の哲学からの大転換であった。それまでの哲学は個人主義モデルだった。主体のみの判断による理性であった。しかし、ヘーゲルは互いに異なる二人、二つの良心のダイアローグにより決まるとした。
美しいたましい
勇気を出して行為して責められる。だったら何もしないという態度。
しかし、それは好ましくない。
・行為する良心
正しいと信じることを、自ら行う態度。
・評価する良心
自分は動かないで(頭の中で)他人を評価する態度。
→それらの良心は対立する。そして相互承認へ。
例)
行為する良心で行為する。
善意の行動の裏には有名になりたいというような潜在意識もあるのではと評価する良心が責める。
↓
行為する良心の告白
そこで、行為する良心は自分の行為における悪い部分を認めて歩み寄ろうとする。
↓
評価する良心の赦し
悪い部分を認めたならば、自らの何もしなかった態度を反省しながら赦す。
↓
相互承認へ
告白と赦しによって、行為する良心と評価する良心が歩み寄り統一されていく。
自由
自由は他者のもとにありながら、自分自身のもとにもある。
衝突がなくならない自由な社会では、告白と赦しの相互承認が他者との協働作業を可能とする。それが続いていくことが現代社会。
不完全な自己を批判し、他者を赦しながら、共存の道を探し続けることによって相互承認が成立する。
社会(私たち)に自由が生まれるかどうかは、相互承認が出来るかどうか。