釈迦の空
釈迦によれば、そらも空になるかと
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「常に気をつけて、世界を空であると観ぜよ」 -- 『スッタニパータ』1119偈
「この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。しかし比丘がおり、比丘についていえば空(欠如)ではない」 -- 『小空性経』(中部経典、中阿含経)
空世間経にて釈迦は、六根とそれにより生じる六境を挙げ、それら自己または自己に関係するあらゆるものが空であると説いている。
suñño loko suñño lokoti bhante vuccati, kittāvatā nu kho bhante suñño lokoti vuccatīti?
Yasmā ca kho ānanda, suññaṃ attena vā attaniyena vā, tasmā suñño lokoti vuccati.
大徳よ、「世間は空である、世間は空である」と〔如来は〕仰られますが、
大徳よ、どのような点から「世間は空である」と仰られるのでしょうか。
アーナンダよ、我(attena)、あるいは我所(attaniyena)が空なるものであることから、「世間は空である」と〔如来は〕説くのである。
—パーリ仏典, 相応部 六処相応 空世間経 35-85, Sri Lanka Tripitaka Project
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私は、実体がないは
物質論ではなく、心の実体がない説明だと思っています。
うまく説明できませんが
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五蘊皆空とは、人は因と縁のつながりであり実体のないものであるという意味です。ここでは五蘊に限らず、「皆空」という考え方は万物に共通すると説いています。
「不生不滅」は因と縁が結びつくか離れるかというだけなので、生まれることも滅することもないという意味です。万物は因と縁のつながりなので、汚れることも増えることも減ることもないと説いています。
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仏教における因縁
一切の存在は、因縁によって生じ、因縁によって滅する。因縁によって生滅するという道理を因縁生滅の理といい、因縁によって生じることを因縁生、縁生、縁成、縁起などという。因縁によって生滅する一切の法はそのまま空なる存在であるという道理を因縁即空の理という。パーリ仏典では相応部因縁篇(Nidana-vagga)などで語られる。一切の現象は原因によって現れる、すなわち「偶然」「突然」「神による創造」などは否定される。
初期の仏教では因(hetu)も縁(pratyaya)も、ともに原因を意味する言葉であり、後に区分が生じて因を原因、縁を条件、とみなした。
Wikipedia参照
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古代は、自分で見えた、感じただけのマクロ科学で、今の科学に通じてはくると私は、言っていますが
古代は、粒子や量子などまったくわかりませんでした。
粒子や量子だと言っているのは、拡大解釈だなと思っています。
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粒子や量子なら、実体があるのではありませんかね?
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諸行無常
諸法無我
この世や我は不変なものはない、因縁により生じたもので実体性がないの教えなんでは?
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