チベット仏教 ダライ・ラマ法王
私は、インド大乗仏教の直伝のチベット仏教普及協会正会員です。
大衆の慈悲の仏教だよ。
いいいいと言ってるだけの中身がない法華経の初期の大乗仏教より、ずっと進んだ慈悲の仏教ですよ。
ダライ・ラマ法王は、今も世界中を周り大衆に慈悲を説いています。
宗教を説いていませんから。
釈尊も滅するまで大衆に幸せになる生き方を説いて回りましたから。
これが小乗ですかね?
寺に籠って、仏教を知らない信者に自分の宗派信者を増やしてこいとやってる坊さんが偉い分けないだろ。
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ダライ・ラマ法王 は
ダラムサラ の公邸で行われた講演にて、ドラッグ、アルコール、お金から幸せは得られない、また宗教への信仰心から得られるものでもない、究極の幸せや喜びは思考によってのみ得られるもので、頭脳を使い科学的に考えことが重要、神仏に祈る必要もないと説かれました。
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ダライ・ラマ法王の法話
そこで私たちは、この世界平和を成し遂げるということを考えるにあたって、私たちの成さなければならない行いというものが一体どういうことなのか、 私たちの心のなかで一体どのようなものの考え方をしていけばよいのかということを考えていかなければならないのですけれども、 そのように、もし私たち一人一人が世界平和というものを望んでいるのであれば、その世界平和に必要とされる行い、 つまり非暴力の行いということを私たち一人一人が実践していかなければなりません。 そしてその逆に、私たち自身一人一人の妨げとなってしまう、怒り・嫉妬・プライドといった心をなくすということも二面方向で同時に行っていくことが必要になってきます。
そのようなことから、われわれの心には、愛と憎しみ、このような二つの矛盾した感情が常に生まれながら具わっているのです。 愛と憎しみというのは、一つの対象を見て全く異なった対立した捉え方をする感情であります。 例えば、一つの他者というものを見て、その他者が苦しみから逃れたらいいなと、これが愛であり、他者を見て他者に苦しみがもたらされたらいいなと、いうふうに思うのが憎しみであります。 この二つの感情というのは両立しえないものなのです。
例えば、外で暑いと思う時は寒いとは思わないわけで、寒いと思うときは暑いとは思わないわけです。 そのように、愛情と憎しみというものは、一つの対象に対して、どちらかしか起らないことになりますので、例えば一つの対象を見て一つの対象に対して愛情が強まっていけば憎しみというものは収まっていく。 憎しみが強まっていけば、その対象に対して愛情というものは少なくなっていくのです。
例えば、われわれは同じ友達とか知り合いで、同じ人に対してその人が好きでありなおかつ嫌いであるということは起こらないのと同じわけです。 しかし、同じ時でなければそれは起るわけです。今日はあの人は嫌いだけど明日になったら好きになると、また明後日になったら嫌いになるということはあるわけです。
そのように、愛と憎しみというものが、二つの異なった捉え方であると、捉え方が対立していると、いうことがまずわかれば、愛情を育むために憎しみを少なくする必要があるということがわかってきます。
ですので、世界平和を実現するためには、まず我々の心のもち様を変えなくてはなりません。 人間の心の中に平安な状態がなくてはもちろん世界というものを平和にすることはできないでしょう。 私たちは世界平和を願うことによって鳩を飛ばすことがありますけれども、ちょっとの鳩しか飛ばさないとたいした平和が達成できない、その意味で私たちはいつもたくさん鳩を飛ばして大いなる世界平和が達成されるように願うわけであります。 ですので、世界平和というものを実現するためには大いなる「慈悲」の心というものが必要になってきます。 要するに私たちが心から願っている世界平和というものは、みなさんお一人お一人の心の中の内なる平和をもとにして達成されるものでなくてはなりません。