▽R06-05-19 文学、文芸、文字
▽文学フリマに行ってきた。
もともと行く気はそんなになかったのだけど、午後にやることが全くないことに気付いて、じゃあ行くかとなんとなく腰を上げた。
こんなnoteを(超スローペースとはいえ)更新していることから分かるとおり、ぼくは文章を書くのが好きだ。はっきりとそれを自覚したのはいつだっただろう。小学生の頃にはネットの掲示板に二次創作小説を投稿していた記憶があるし、中学生の頃には、将来の夢はラノベ作家だと公言していた気がする。思い出すと恥ずかしいが、こんなふうに自己満足な自分語りを全世界に発信している今のほうがずっと恥ずかしいのだから始末に負えないな。
そんなわけで……というかなんというか、文フリを回ると、そこで自分の作品を並べているすべてのサークルのことが羨ましくなる。そして悔しくなる。だって、自分だってそこに座れていたはずなのだから。あなたたちのかわりに、自分がそこに座るかもしれなかったのだから。身の毛もよだつほど傲慢だけれど、きっと包み隠さない本音を言えばそうなる、と思う。実際のぼくは、目標を叶えたいのならば当然にやるべき努力を怠った結果、当然に何事も大成せず、そして元から目標などなかったのだという顔をすることばかりが上達していった、よくいる人生不戦敗の一般人だ。だから自分が文フリの一般参加者であり、またサークル参加者がサークル参加者であるのは言うまでもなく必定なんだけど、それでも勝手に変な羨望を抱いてしまうのだからひとの心の自分本位さはすごい。
では楽しくなかったのか?と言われたら、そんなことはない。文フリはいつもすごく楽しい。文字で何かを伝えたい人たちが世の中にはこんなにいるんだ、と思うと、それだけで何故か救われたような気持ちになる。
コミケとかコミティアとか漫画系中心の同人誌即売会もすごく楽しいんだけど、どっちかというと、それらに足を運ぶぼくの目線は「客」としてのものだ。コミケにお客様はいない、という格言は示唆的だけど、事実としてぼくはあそこに買い物をしに行っているのだから客は客だろう。それは文フリも一緒と言えば一緒だ。でも違う。何かが違う。文フリで買い物をしたときに交換するのは、「戦利品」としての作品たちと、対価や応援の気持ちとしての金銭……ではない。そのときぼくたちは間違いなく、言葉そのものを交換しているような気がする。向こうがどうかは分からないけど、自分にはそう感じるのだ。
だから、文フリで買った本を読むときはいつもより緊張する。同人誌と商業誌とで中身にそれほど本質的な違いがあるとは思えないけど、やっぱり同人誌のほうが、作者の「生」の声が耳元でよく聞こえる気がするから。
もちろんそこで作者が語りかけてくるのは、ぼくが身勝手に作りだした自分本位な幻聴なんだろうけどね。
「チャリティー百人一首」という本を買った。短歌の本なんて文フリ以外では買わないからけっこう新鮮だ。
膨大な余白を残しながら1ページに一首ずつ書いてある、「春」をテーマにした短歌たちを読み進める。ぼくはまったく詩歌の素養が無いから、正直に言って、はっきり明快に解釈できたと感じる歌の方が少ないくらいだ。たいていは多義的でどういうことを指すのか分からないか、又はたったの一義も読み取れないか、そもそもリズムをつけて読むことが難しいかの三択である。
敢えて再強調すれば、それは自分の耳と脳みそと胃の調子が悪いのが問題なのであって、短歌の方に問題はまったくない。けれど、もっと素直に意味の取れる短歌ばっかりだったらな、と感じてしまうのも確かだ。ままならないもんです。
もちろん、百首の中には、ぼくにだって解釈できる程度に具体的な内容を持つ歌はたくさんあった。そういう歌を見ると、本当に凄いなぁと思ってしまう。
定型詩は、思ったことをそのまま言葉にするだけでは絶対に完成しない。胸の中心にある感傷や感性を類稀なるセンスで再構成することができなければ、短歌はただの31文字の文章だ。しかし逆に、明らかに奇抜な言葉選びをして一見難解な歌に仕立て上げてしまっても、ぼくのような浅学の輩には通じない。使う技法は平易に、けれども抜群のカメラワークをもって現実を切り抜く。そういうことをしている創作者のことが、ぼくは好きです。
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