銀河鉄道を追いかけて #2
2nd stop ラムネ売りの少女と北十字
正人は呆然として背もたれに背中をあずけていました。真吾もリュックサックを両腕に抱えたまま、ぽかんとしています。そして真吾はとつぜん、叫びだしました。
「うおお、すっげえ! 乗れてるよ!」
「うわっ、急にでかい声出すなよ」
正人は真吾に文句を言いながら、列車のなかを見回しました。濃い紺色のクッションの座席が並んでいて、すべての席が向かい合わせのつくりになっています。見わたす限り、どこまでも人は座っていません。
「俺ら以外に、誰も乗ってないのか」
「そうみたいだね。まあ、ほかの車両にはいるかもよ。いいじゃんか、別に」
真吾はリュックサックのなかから、なにやら小さな黒い円形の板を取り出して、正人に見せました。
「ほら。あのおじさんに、路線盤ももらってたんだ」
真吾はその板を、正人にも見えるようにひざの上にのせて差し出しました。それは、薄くて平べったい黒曜石に、ダイヤモンドの粉を散りばめて作られた、星座早見盤でした。ダイヤモンドはさらさらと光って、まるで、うっとりするようで、それぞれの停車駅や目印になるような場所には、サファイアやトパーズがはめこまれているのでした。真吾は、路線を指でなぞりながら言いました。
「次は、えっと……ああ、北十字駅だ。その次が、白鳥駅らしいよ。北十字駅では、そこの切符を持ってる人しか降りちゃだめなんだって」
「ふーん。お前がもらったのは違うのか?」
「うん、それじゃない。でも、ここらを一周できちゃうやつのはずだよ」
正人は「へえ」と生返事をしながら窓の外に目をやりました。真吾はそれに気づいて、窓を上に押し開けました。心地よい風が吹きこんできます。ちょうど外には河原が見えて、銀色のすすきが風にふわふわとゆれていました。じっとその景色を眺めていると、夢のなかにでもいるような気分になってきます。正人は目を閉じて、いつも夢からさめようとするときのように、神経を集中させてみました。でもやはり、どうしてみても意識ははっきりとしているのでした。
「マサ、酔ったのか?」
あまりに長いこと、難しい顔をして正人が黙りこくっていたので、真吾は心配そうに声をかけました。正人はただ、頭を横に振りました。夢だとしても、夢ではなかったとしても、どうやら今の状況からは逃れられないようだと思ったのです。覚悟を決めた正人は、楽な姿勢に座り直しました。そんな正人の様子を見ていた真吾は、神妙な面持ちで、少しうつむいてしまいました。
「俺は大丈夫だって。ほら、せっかく来たんだ。外の景色でも見ればいいだろ」
正人がそう言うと、真吾はやっと再び視線を外に向けました。そしてその途端にびっくりしたように目を見開いて、窓枠に手をかけて叫びました。
「マ、マサ! ちょっと、あれ!」
「なんだよ……」
真吾の大声に、正人はうるさそうにその視線に従って外を見ました。青白い草原と銀のすすきが、風にゆれているばかりです。真吾が何を見て騒いでいるのか、正人にはさっぱりわかりませんでした。仕方がなしに、正人は窓から身を乗り出すようにしている真吾を少し列車のなかに引きもどして、となりに立ってそこらを見回してみました。すると、汽車の蒸気の音や、草をなでる風の音や、車輪のがたごと言う音に混じって、たったったっと、なにやら規則的に刻まれる軽やかな音が聞こえてきました。まるで、人が走っているような音です。正人は、さっき真吾がしていたほどではありませんが、少しだけ頭を乗り出して窓の外を見ました。
「うわっ!」
正人はやっとその音の正体を見つけて、驚いて自分も声を上げてしまいました。車窓の外を一人の少女が走っていたのです。少女は、正人と真吾の席の窓に追いついて、列車と並んで、ほとんど同じ速さで走っています。それでも、必死に走っているという感じはなく、とっとっとっという軽やかな足どりでした。月明りのような色をした髪をさらさらと風になびかせながら、少女は銀色の瞳をこちらに向けて、にっこりと微笑みました。
「こんばんは。銀河のラムネはいかがですか?」
少女は、鈴の音のようなかわいらしい声で言いました。正人や真吾よりも年下でしょうか。年上のようにも見えます。その足元は見えませんでしたが、少女はまったく息切れもせず、よろめくこともなく、駆けながらカゴにいっぱいつまったラムネのビンを、こちらに見えるようにかかげました。
「えっ。ああ、ええと。じゃあ、2つください」
真吾がそう言うと、少女はうれしそうにカゴからビンを2本抜きとって、手を伸ばして真吾にわたしました。薄青く透き通ったガラスは、まるで空気を凍りつかせたもののようでした。
「あの川の水でつくっているんですよ」
少女は、少し離れて線路に沿って流れる川を指さしていいました。それは天の川でした。透明のような、白いような、青いような、ふしぎな色の水。ふつうの川とは見るからにちがって、水よりも、空気よりも澄みきって軽い何かが流れています。真吾はその川と少女になんだかぼんやりと見とれながら、正人にビンの一本をわたしました。正人も寝ぼけたような表情で、受けとったビンを見つめました。真吾は座席に置いたリュックサックに手を突っこみながら言いました。
「おいくらですか?」
すると少女は、おかしそうに笑いました。それからさっと頭を振って、顔にかかった髪をはらいながら言いました。
「いいえ、お代はいりません。これは銀河のラムネですから。よい旅を!」
そう言うと、少女はどんどん車両に沿って、前の方に走って行ってしまいました。耳に届くその足音はしだいに遠くなって、やがてまた列車の音と、風が草をなでる音しか聞こえなくなりました。真吾は少女の姿が見えなくなっても窓の外を見ながら席に座りこみました。
「あの子、きっと足に翼が生えているんだ」
透き通ったビンを見つめながら、正人は何も答えませんでした。あの少女が走り去るそのとき、正人に向かって投げた気がした、一瞬の凍てつくような鋭い視線を思い出していたのです。
がたごとと、列車は走り続けています。手に持っているラムネのビンはほどよく冷たいけれど、少しもぬれていませんでした。ぬるくなってしまうと、もったいないので、正人は思い切ってぐっと栓をぬきました。ぷしゅっという音とともに、ガラス玉がビンのくぼみに落ちました。すると、ふわりと軽い気体があふれ出した気がしました。正人は開けたビンを、自分のビンを開けようと頑張っている真吾に差し出しました。
「落っことすぞ。こっち飲め」
「あ、ありがと」
正人は真吾の開けていない方のラムネを手に取って、栓をぬきました。見れば見るほど、ふしぎなラムネです。手に感じるのは、ビンの重みだけでした。なかには、青いような、銀色のような、透明のような何かが、ゆらゆらとゆらめいている気がします。正人には、どうやって飲むのかも、自信がありませんでした。真吾はなんの迷いもなく、ビンを傾けていました。
「ん、なんだこれ?」
一口飲んで、真吾はきょとんとしてラムネを見つめました。
「どうだ?」
まだ怪しんでいる正人は真吾に聞きましたが、真吾はわくわくした顔で正人も飲んでみるようにうながしました。正人は思い切って、言われるままに、ビンの口をくちびるにあてがって、傾けてみました。すうっと、口のなかにそれが流れこんできます。どうにも説明のしようがない口あたりでした。霧をなめたように舌に乗る触感は軽く、初めは何もないかのようでした。けれどたしかに口のなかから喉まで、やさしく潤ったのです。味もまた、ふしぎなものでした。冷たさのせいか、口に入れた瞬間はほろ苦く感じた味が、ひと呼吸おく間もなく金平糖がはじけたような甘さに変わったのです。
「これが天の川の味なんだな」
真吾がうれしそうに言います。正人はあっという間にそれを飲んでしまって、空になったビンをからからと振っていました。そうして、なかのガラス玉を鳴らしながら、正人はまた車窓の外を見ました。線路沿いの短い銀色の草原の間に、ラピスラズリのような色のりんどうが咲き乱れていました。真吾もラムネを飲み終えて、言いました。
「ラムネとか、ひさしぶりだな。こうやってさ、どうしてもガラス玉を出したくって」
真吾はビンをひっくり返して軽く振ります。ガラス玉は、からんからんと音を立ててビンの側面にぶつかり、穴を塞ぐばかりです。真吾は悔しそうな顔をしました。
「ペットの水飲みみたいだ」
「ビンを割るかどうかしないと、だめだろうな」
そう言いながら、正人も自分のビンをひっくり返しました。からんからんと、ガラス玉はまたビンの内側にぶつかります。そして、音も立てずにビンの口をすり抜けて落ちました。正人も真吾も驚いて声を上げました。ガラス玉は、かつん、ころころと床に落ちて転がりました。真吾はあわててそれを拾い上げると、正人に差し出しました。
「すげえじゃん! ほら、大事に持っときなよ」
正人は目を丸くしたまま、それを受け取りました。濡れたまま床を転がったはずなのに、ガラス玉には塵一つ、汚れ一つ、ついていません。そのガラス玉は、ビンと同じように、空気を凍りつかせたように透き通っていて、ムーンストーンのように、銀色と青白い色の澄んだ淡い光を放っています。真吾は、正人の手のガラス玉をつくづく見つめて、きれいだよなあと言いました。ほんとうに、この世のものとは思えないようでした。正人は、そんな真吾の顔をちらりと見て言いました。
「俺はいらないし、お前が持っとけよ」
「いや、マサが出したんだから、これはマサのだよ」
真吾は真剣な顔をして、正人の手を押し戻し、しっかりとガラス玉を握り直させました。正人は、別段それをほしいと思っていたわけでもないのですが、うなずいて、ガラス玉をズボンのポケットに入れました。真吾は、満足そうに笑っています。
窓の外の景色に、また、たくさんのりんどうが連なって、流れてゆきました。正人は、広がる瑠璃色の景色に目を奪われて、窓の外を見ているうちに表情をやわらげていました。
二人しかいないと思っていた車内のどこかで、ごとりと音がしました。
「切符を拝見いたします」
おだやかで、ていねいな、でもよく通る声が聞こえました。見ると、白い帽子を被り、すその長い上着を着た背の高い車掌が、前の車両から入ってきました。車掌は帽子のつばに触れてちょっとお辞儀をしてから、切符の確認にやって来ました。正人はなんだか変な気分になりました。この列車には自分たちのほかには誰も乗っていなくて、どこまでも無人で走っていくような気がしていたからです。
真吾がリュックサックの外側のポケットから切符を出しました。正人も、ポケットに入れていた財布からそれを取り出して、ふと気がつきました。この切符は、何も書かれていないただの厚紙なのです。こんなもので、ほんとうに大丈夫なのでしょうか。
「切符を拝見いたします」
車掌はもう二人の目の前まで来ていました。真吾が、ごく当たり前のように切符を差し出しました。正人も、どうにでもなれと思いながら、思い切って、淡い藍色のカードを突き出しました。車掌はていねいにそれらを受け取り、少しの間じっと見つめて、また二人にそれを返しながら言いました。
「今どきおめずらしい、定期乗車券ですね」
正人と真吾は顔を見合わせました。切符をもらった当人の真吾でさえ、そのことを知らなかったようでした。
「では、どうぞよい旅を」
そう言って車掌は後ろの車両へ移っていきました。正人と真吾は、改めて切符をまじまじと観察しました。
「やっぱり何も書いてないじゃないか。それに真吾、お前、もらったときに、その人は急用ができて来れなくなったって言ってたんだろ?」
「うん、そうだよ」
真吾もふしぎそうに考えこんで切符を見つめ、くるくると角度を変えてみたり、光に透かしてみたりしています。
「おかしいじゃないか。定期券なら、今日じゃなくても使えるのに。しかも二枚も持ってたなんて」
「俺に言われたって、わかんないよ。俺にだって、何が書いてあるのか見えないし」
正人の口調が少しとげとげしていて、責めるような声色だったので、真吾もちょっとむっとした調子で言いました。
「人を巻き込んでおいて、それは無責任だろ」
正人は怒ったように言いました。真吾は口をむすんで、黙ってしまいました。
車内は静まり返ったまま、列車は走って行きました。にわかに、窓の外から強い光がぱっと差しこんできました。ダイヤモンドや草の朝露、秋の霜のように、きらきらと細かにきれいな光を放つ銀河の流れの先に、小さな島が一つ浮かんでいるのが見えました。正人も真吾も冷たい水を浴びたようにはっとして、そちらの方向を見ました。その島の真ん中では、雪のように、もしかすると、それ以上に白く光を放つ大きな十字架がたたずんでいました。幾人もの人影が、列を連ねてその十字架へ向かい、祈りを捧げています。列車の音の向こうから、ハープのような音色や、鉄琴や笛の音のような音が聞こえ、はじめて聞くような、どこか懐かしいような音楽が微かに耳に届くのでした。淡くりんごのような香りも漂ってきます。見る間に、島と十字架は、車窓から見える景色のずっと後ろの方に行ってしまいました。
「あれが、北十字だ」
真吾は星座早見盤を手に、つぶやくように言いました。河原には、ずっと背の高いすすきばかりが続いていて、ときおり、ちらほらとまた青いりんどうが見えるばかりです。正人は、国も、次元もちがうような、このふしぎな空間に、飲み込まれてしまっている気がしました。
「次は、白鳥駅に8時20分着だよ」
真吾が、ぐるりぐるりと路線版を回しながら、言いました。すっかりいつもの明るい声でした。正人は腕時計を見ました。
「あと5分くらいだな」
正人も、いつも通りの穏やかな調子で言いました。
「まもなく、白鳥駅」という声がしました。放送によると、そこで20分間の停車ということだったので、正人と真吾は荷物を整えて、ここで少しだけ駅に降りてみることにしました。