銀河鉄道を追いかけて #4
4th stop 丘向こうで会った鳥
駅に戻る道すがら、真吾は正人の様子がおかしいのに気がついていました。けれども、正人が自分で言おうとしていないことを、どうやって聞いたものか迷っていたのでした。
「なあ、真吾」
「ん?」
真吾は正人の次の言葉を待ちました。正人はしばらく口ごもり、言葉を探して、しまいにふっと息を吐いて、話すのをやめてしまいました。
「マサ?」
「いや、何でもない」
真吾は正人の顔色が悪いのにも気がつきました。真吾が困っていると、正人は急に大きな声で言いました。
「よし、列車まで競争しよう。負けたら罰ゲーム!」
そう言うやいなや、正人は走り出しました。
「えっ、あ、ずるい! 待てよ、マサ!」
真吾は慌てて正人を追いかけました。きらきらと、車窓から見えていたのと同じように景色がうつくしく通り過ぎてゆき、頬を撫でる風はさわやかで甘い、みかんのような香りがしました。どんどん走って、二人はとうとう列車のデッキに飛び乗りました。ふしぎと息を整える必要もありませんでした。すぐに、汽笛とともに列車が走り出しました。
「ふう、今のは引き分けだろ。えへへ、それでさ、この先の白鳥区の終わりにアルビレオ観測所ってのがあるらしいんだ。何を観測していたんだと思う?」
真吾は言いましたが、正人からは何の返事もありません。真吾が顔を上げると、さっきまで一緒に居たはずの正人の姿がありませんでした。先になかへはいったのだろうかと思って車内へ入って覗いてみましたが、前の方にも後ろの方にも、真吾のほかには誰の姿もないのです。
「おい、マサ。なにやってるんだよ、らしくない」
真吾は、正人が隠れていないか、座席の陰をたしかめようと飛び出すと、さっき二人が座っていた席の窓から、さあっと冷たい風が吹き込んできました。木枯らしのように寒い風でした。真吾はぞっとして肩を跳ね上げました。窓枠の向こうには、辺り一面にははこぐさが、黄色や青白い色に光って揺れています。そのなかに、二つの人影が立っていました。ききょう色の空を背景に、遠いのに、なぜかはっきりとその姿は見えました。
「えっ、なんで」
真吾は窓から身を乗り出して、大声で呼びかけようとしました。すると突然、喉の奥でぐっと何かが詰まりました。首を絞められたように苦しく、ぐらりと意識が揺らぎます。真吾は窓枠を掴む手に力を込めて、二人から目を離さないように必死で体を支えました。
正人と、もう一人、一緒に居るのは誰なのでしょう。星明りに照らされてひるがえる銀色の長い髪、ひらひらとはためく長いスカートが目に入りました。あれは、さっきのラムネ売りの少女です。どうしてあの少女と正人が、あそこに一緒に居るのでしょう。正人が苦しげに両手で喉に手をやり、膝を折って崩れ落ちるのが見えました。少女は正人の胸倉を、まるで物を扱うようにぐいと掴みました。唇には氷のような微笑みを浮かべています。遠くで起きていることなのに、真吾にはすべてがはっきりと、近くで起こっていることのように見ることができたのです。
「やめろ!」
真吾は叫ぼうとしますが、声は出ませんでした。水から出された金魚のように、ただ口を動かすだけです。少女は、背中に回していた右手を前に出しました。その手には何かきらりと光るものが握られていました。鋭く尖った、大きな鏡かガラスの欠片のようでした。正人の目が大きく見開かれます。正人は両腕で体を庇うようにしましたが、少女はそれよりも速く正人の左胸に目がけて、まっすぐにそれを振り下ろしました。
「ああっ」
真吾の目に、一瞬、真っ赤に流れ出す血の光景が、張りついたように浮かびました。酸欠とめまいと衝撃とで、真吾はもう立っていられそうにありませんでした。
ところが、その反射的な想像とは裏腹に、鏡の欠片は吸い込まれるように正人の胸に入っていったのです。淡くふんわりと積もった雪のなかに、そっと手を差しこんだ時のように、自然に、やわらかな様子でした。
その瞬間、さっきまで真吾の喉いっぱいに満ちて息を塞いでいた何かが、すうっと流れて、融けて行くのを感じました。真吾はごほごほと咳き込みます。息が乱れて、めまいはひどくなっていました。こらえきれずに一度膝をついてしまいましたが、真吾はまた窓枠にしがみついて、外に目を遣りました。
野原の草のなかで、少女が正人に何か囁きかけていました。正人は、何事もなかったかのようにしゃんとした姿勢でまっすぐ立ってうなずき、黙って少女に従って後をついていきます。正人のその目を見て、真吾は真っ蒼になりました。正人は、さっきまで一緒に居たときとは打って変わった、冷え切った虚ろな目をしていたのです。正人と少女の姿はどんどん遠くなってしまいます。真吾はとうとう目の前が真っ暗になって、その場にひざを折って、うずくまってしまいました。
真吾がやっと立ち上がれるようになったのは、それからしばらく時間が過ぎてからでした。荷物を座席に放ったまま、真吾は列車のデッキに出ました。強い風が真吾の顔に吹きつけました。広いははこぐさの野原は、まだ続いています。正人は、どこへ、どこまで連れていかれたのでしょう。真吾は足に力を込めて踏み切ると、列車から飛び降りました。どれくらいの間、体が宙に浮いていたのか、銀色の草原が視界の端に入り、くるくると回って、地面に体を打ちつけた痛みで、やっと真吾は着地したのが分かりました。
「いたた……」
真吾は身を起こして、自分の腕や脚を確かめました。真っ白な茂みが体を受け止めてくれたようでした。少し擦りむいたところはありましたが、大きな怪我はしていませんでした。
「うん、全部くっついてるから、大丈夫」
真吾は立ち上がってみて、少しだけ足首が痛いのに気がつきました。ともかく、服についた土を払って落とします。まずは、さっき正人と少女が居た場所を目指さなければなりません。
ははこぐさの野原は、ゆるやかな丘になっていました。真吾は、何か手がかりが残っていないか、きょろきょろと辺りを見回しながら、たくさんの黄色と青白い色のははこぐさのなかを、歩いて行きました。
少しだけ引きずるように歩いていた右足が、心なしか痛みを増してきました。真吾は、どうすればいいのか、焦りが増すばかりでした。
「あっ!」
真吾は、一筋の道のようなものを見つけました。誰かが通ったあとのように白々と光っていて、人の足あとのようなものが二人分、続いていました。
「これを辿っていくしかないな」
真吾がそこをがさがさと踏み分けて行くと、歩いたあとがさらに白くぼんやりと光りました。
真吾がしばらく歩いて、ちょうど丘のてっぺんへ来たころです。おぼろ月のような光の筋の道を辿って見て行くと、その先に天の川が見えました。白い道はその川の流れの目の前で途切れて、広い川の向こうに、またぼんやりと、その続きが見える気がしました。
ふしぎなこの川は、相変わらず、ふわりふわりと、見た目にはその流れはわからないようで、それでいて、その銀色に輝く青い流れは、たしかに、風のように目の前を走っているようでもありました。少し離れたところでは、白鳥が上から降り立って、優雅に泳いでいました。どこを見回しても、橋のようなものも、小舟のようなものも、見当たりません。泳いで渡るとしても、真吾は泳ぎに自信がありませんでした。
「でも、行くしかないよ……」
真吾は、目の前の川をじっと見つめました。そして、吸えるだけの息を吸うと、思い切って飛び込みました。
ばしゃんと、体を受け止める水の感覚があると思いきや、真吾の体は、そのまま、すとんと川底へ落ちて行きました。何が起こったのか、真吾はすぐには理解できませんでした。軽くて掴みどころのない何かが、体を包み込むように圧しかかります。白くて明るく、青くて暗い、銀河の水が、体を運び去ってしまおうとします。やわらかく冷たい天の川の流れに、真吾はこのまま死んでしまうのではないかという考えが浮かびました。もがいてみても、まるで空気のなかでその動きをしているかのように、まったく意味をなさないのでした。呼吸もできるはずもなく、喉いっぱいに、水が入ってきました。もう真吾には、上も下も、右も左も、どこを向いているのかも、わかりませんでした。
『あ、銀河のラムネと同じだ』
そう思ったのを最後に、真吾は気を失ってしまいました。
ぼんやりと、黒曜石にダイヤモンドを散らしたような景色が見えてきます。あの路線盤、星座早見盤。黒のなかでも、どこか透き通ったこの闇。一筋、水晶の欠片が流れて落ちます。
「あっ、きみ。しっかりしなさい、ほら」
ばさばさと何か羽ばたくような音が聞こえて、頬に風が当たるのを感じました。真吾はまばたきをして、目をこすり、頭がぼんやりしたままに風の来た方向を見ると、一羽の茶色い鳥がこちらを見ていました。
「ああ、よかった。もう大丈夫みたいですね」
茶色い鳥は安心したように、ふわり羽毛を逆立てて、黒いまるい目を細めてにっこり笑いました。真吾は、何だかかわいらしい鳥だなと思いました。見たことのない種類の鳥でした。
「助けてくれたの?」
「まあ、そんなところです。いったい、あんなところで何をしていたんです? あすこの辺りは特に、水瓶座の水瓶くらいは深いんですよ」
真吾には水瓶座の水瓶の深さは分かりませんでしたが、その鳥が、真吾を助け出すのは大変だっただろうということは見て取れました。茶色い鳥は、片手に収まってしまうような小鳥ではないけれど、それほど大きくもなかったし、足もあまりたくましいとは言えない見た目だったのです。
真吾はひどく申し訳なく思いながら、今までのことを鳥に話しました。茶色い鳥は、その黒い目を真剣に丸くしながら、ときおり左右に首を傾げつつ、正人がラムネ売りを売っていたふしぎな少女に刺されて連れていかれてしまった話と、それでここまで真吾が追いかけて来ていた話を聴いていました。
茶色い鳥は、真吾が話し終えると、考え込むようにじっと目をつぶってしまいました。それからまた、その丸い目を開いて、真吾を見上げました。
「きみのお友だちを連れて行ってしまったのは、まちがいなく銀色の少女です」
茶色い鳥は、重々しい口調で言いました。あの少女には名前はないのでしょうか、あの容姿そのものが呼び名になっているようでした。
「ねえ、鳥さん」
「ああ、ぼくは、よだかと言います。呼び捨てでいいんですよ」
「うん、わかった、よだか。あの子はいったい、何者なの?」
真吾がそう尋ねると、よだかはゆっくり首を振り、残念そうに言いました。
「星座も星も、星に住む誰も、あの子のことはわからないんです。ある時からいきなり現れて……。けれどあの子は、銀河の水を閉じ込めてしまいました。それをどんなことに使っているかは、きみの知っている通りです。だから誰も、あの子のことをよくは思っていません」
真吾はよだかの言葉を聞いて、きゅっと口を結びました。一刻も早く、正人を助けに行かなければなりません。
「よだか、ほんとうにありがとう。どうお礼したらいいのか……でも、こうしている間にも、俺の友だちが危ないかもしれない。早く助けに行かないと」
よだかは小さくうなずいて、静かに飛び上がりました。
「ええ、そうですね。ぼくは、彼女の砦を知っています。そこまで案内しましょう。歩けますか?」
そういえば真吾は足をくじいていたのでした。このまま歩いて行くことができるでしょうか。真吾はおそるおそる立ち上がってみました。
「ああ、大丈夫」
「よかった。気をつけて、ついて来てください」
そう言って、空を切るように飛び始めたよだかは、ときどきくるりとまた真吾のところへ戻って来ては、きちんとついてこられているか、確認するのでした。よだかの飛ぶ姿は、どことなく鷹のように凛々しいのに、心配そうに見下ろすときの顔はとてもかわいらしく、真吾はつい笑みを漏らしました。歩きながら、真吾はよだかに話しかけてみました。
「なあ、よだか。よだかって、かっこいい名前だな。夜の鷹って書くんだろう」
「ええ。ぼくが地上にいたときには、そのことでずいぶんと鷹さんから苦言されたんですよ」
よだかは遠い目をして言いました。真吾は首を傾げました。よだかは、真吾の傍に飛び降りて来ました。真吾は腕を曲げて、そこへとまらせ、歩きながら話を聴き続けました。
「ぼくは、こんなにみにくい姿をしていますから、鷹さんはそれがいやだったんです。名前を改めろと、それは何度も言われましたよ」
たしかによだかは、華やかな鳥ではありませんでした。カワセミだとか、ヒタキだとか、レンジャクやメジロだとか、日ごろ身近に見かける鳥に、きれいなものはたくさん居ます。真吾は、森のなかや、その奥の川辺にいるような、あまり出会う機会のない鳥についてはよく知りませんでした。けれども、よだかがみにくいとは、どうしても思えません。
「みにくい……?」
よだかは、大したことではない様子で、少しだけ懐かしそうに、ちょこんとうなずきました。真吾はちょっと悩んで、それから口を開きました。
「こんな言い方は失礼かも知れないけど、俺はお前のこと、かわいいと思うんだけどなあ。俺、鳥好きだし」
それを聞くと、よだかは、ぱちりと目を開いて真吾を見ました。それから笑いながら、真吾の腕から飛び上がりました。
「そんな風に言われたのは、はじめてですよ。きみは面白い人ですね」
真吾はまた、よだかについて歩いて行きながら、ぽつりと呟きました。
「あとな、お前はなんだか、俺の友だちに似てるんだ」