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愛は哀と合う

 愛とはこういうものなんだ、と思った。
 いま、この瞬間こそが世界の真理の只中であって、世の中にはこの歓びを感じることが一度もないまま骨になる人間も多い中、あたしは二十代で感じることができている。

 愛とはすなわち幸せのかたちなのだろう、とも思った。抱きかかえるようにしても腕の隙間からぼたぼたと落ちてゆくその欠片を拾うことができないほどに、今のあたしは身体いっぱいに、愛、つまり幸せを感じている。
 重ね合わせた肌から伝わる、自分ではない他人の体温。掌にのせた雪の結晶がじんわりと融けるように、気づけば唇から二文字だけがゆっくりと零れ落ちていた。

「すき」

 隣の彼は、口に出して返事をすることはせず、ベッドに横たわるあたしの身体の上に腕をまわす。そこまではすごくスローだったのに、ふいに、強く抱き寄せてくる。かっ、と熱くなったのはあたしにもわずかに残っていた恥じらいによるものか、彼の体温か。
 その回答を弾き出すよりも先に、あたしの唇は塞がれてしまう。もはや問題も回答もどうでもよくて、全世界の連中にはこれから一つに混ざり合ってゆくあたしたち二人のことを放っておいてほしい。
 勝手に、でろでろに溶けておくから。


***

 巨大なターミナル駅は、ホテルのすぐそばにあった。
 あたしは翌日の朝、自分の家に帰るために新幹線に乗る彼を見送った。月に一回の出張で彼があたしの街に来るときの恒例行事が、昨日彼に会ってから、さっき彼の乗った新幹線がホームから見えなくなったときまでの、一通りの流れ。
 今も心臓があたたかい。いつもは死んでるってわけじゃなく、死にかけている。会えない間に灯火が消えてしまいそうになるあたしの命に、会うたびに愛というまきをくべてくれるのが、彼だ。学生時代の同級生と、社会人になってまた出会ったことに運命を感じなかったかと問われれば、何も思うなという方が無理だ……と言うしかない。

 昨晩「十二月も来るよ」と彼は言っていた。そしてその日が二十四日の金曜日と知ったあたしはすっかり色めき立ってしまって、彼に「一応仕事なんですけど」と笑いながらとがめられた。キリストには申し訳ないけど、今年のクリスマスイブは、彼と一緒に過ごせることを盛大に祝いたい。彼とともに胸焼けしそうな愛に溺れている時間をくれさえすれば、他には何も望まない。

 だからみんな、くれぐれも余計な茶々は入れないで、ほっといてくれ。
 そんな気持ちでいたのが、十一月の中旬のできごとだった。


***

「課長、その仕事の残りはあたしが引き継ぎますから、もうお帰りください」
「へ? いいよ別に。こんな日くらい久瀬くぜだって、さっさと帰りたいだろう」
「あたし、帰ったところで何もないんで。そんなこと言うなら、課長は今日くらいちゃんと定時で帰って、家族サービスしてください」

 課長の返答を待たず、あたしは書類をその手からひったくった。この人は、この会社の上司にしては人格者で、日頃からあたしを気にかけてくれている。そしていつも、さらに上のスットコドッコイな役員たちから無理難題を押し付けられた結果、毎日のようにオフィス街の夜景の一部を遅くまでたった一人で彩っているということも、あたしは知っていた。
 だからたまには早く帰ってゆっくりしてほしい、という気持ちが半分。
 いや、三割かもしれない。

 ごめんなさい、課長。あたしはそれよりも、いつまでも自分のことを気持ち悪い周期で揺れ動かしてくるこの感情を、なんとかして解消したいのです。仕事という免震装置を使って。一心不乱に仕事を片付けている間は、余計なことを考えずに済むから。
 それにはちょうどいいくらいの重さがありそうな仕事に、たまたま目の前で課長が手をつけようとしていたから、奪い取っただけなのです。

 そう、奪い取っただけ。
 だけ?

 そんな軽い言葉で片付けるつもりかよ、くそが。

 苛つきはじめたことを悟られぬよう、あたしはこちらに申し訳なさそうな顔をして何度も会釈してくる課長のことを、満面の笑みで見送った。


***

 彼から《もう会えない》というメッセージが届いたのは、つい一週間ほど前のことだ。突然のことですっかり気が動転したまま、あたしは彼に電話をかけた。「おかけになった電話番号への通話は、おつなぎできません」という味もそっけもないアナウンスが流れてきたのをスイッチにして、自分でもびっくりするくらい涙が出てきた。滲む視界の中、卑怯だとは思いつつも震える手で「もういいよ死ぬから」とメッセージを送ると、今度は彼の方から電話がかかってきたのだった。

 そこから彼が何をあたしに話してきたかは、断片的にしか覚えていない。よく、そういうとき「何も覚えてない」なんてのたまう女がいるけど、覚えてないわけがないんだよ。だったらおまえがさっきからSNSに垂れ流してる中学生に毛の生えたようなポエムは何だよって感じだよね。
 先月まであたしはそうやって彼の隣で笑っていたのに、彼はそれを聞きながらきっと内心では「おれがこいつのこと振ったら、一体どんなポエム書くんだろうな」とわらっていたんだろう。

 そして電話を切ったあと、彼はきっと電話中も隣にいたであろう女と一緒になって、元恋人たるあたしのことをクソミソにこき下ろしていたに違いない。大丈夫なのあんたの元カノ。まあ大丈夫じゃね、住んでるとこ遠いし。そんなこと言って、わたし夜道で後ろから刺されたりしたくないんだけど。大丈夫だって、どうせ今日だってウチ泊まってくだろ。わかってるじゃん、そういうとこ好き。

 あーもうだめ。会話を想像しただけで吐きそう。だいたい、もしやるなら後ろから刺すなんてセコいことしてたまるか。相手の女に恨み節だって吐いてやりたいし、正々堂々、正面からやるに決まっている。

 両手一杯に抱えていたはずの愛は、今は欠片一つさえも残さずに消えていた。自分を抱きしめるように両腕を身体に引き寄せても、胸についている脂肪のかたまりが音もなく潰れるだけだ。やがてその態勢のままで膝をついて動けなくなると、潮が少しずつ満ち始めて、膝下からあたしのことを絶望という冷たい波で、何度も洗った。
 誰もあたしの人生に責任など取ってくれない。愛に溺れすぎて、やがて陸に打ち上げられた時にどんな格好をして歩けばいいのかも忘れていた。そしてそれは、絶望に打ちひしがれたあとも同じだった。

 あたしはこれから、たったひとりで。

 唇の端から嗚咽を洩らしつつ、携帯から彼の連絡先や写真を消した。


***

 師走のオフィスから人がひとり消えるごとに、少しずつ熱が失われていく。冷えを感じて、机の下ではひざかけを脚にかけながら、開放感を顔に滲ませて次々と足早に退社していく同僚を見送った。
 寂しくはなかった。そこそこパンチのある仕事だから、集中している間に何人かはきっとスルーしただろうし、何人かは本当に嫌いな上司だったから意図的に無言の会釈でごまかした。あたしは確かに自分の気を紛らわせるためにあえて仕事を引き受けているけど、嫌いなやつのためにエネルギーを割く余裕など、どこにもなかった。あたしを振る前の彼もきっとそうだったんだろうな……と思いはじめたことに自分で気づいて、反射的に頭を振ると、パソコンのキーボードにそっと指を置く。
 今やるべきことに集中、集中。
 動機こそ不純だとしても、これはれっきとした仕事なのだ。
 言い聞かせながら、あたしはエンターキーを力強く叩いた。

 それからしばらくの間、完全に仕事に没頭していた。何気なく壁に掛けられた時計を見上げる。秒針は刻むのではなく滑るように文字盤の上をぐるぐる回っているが、長針と短針はパッと見た感じ、まったくやる気がなさそうに現在時刻を指していた。
 午後九時十五分。仕事は片付いた。誰かが会社をキャンドル代わりに燃やしたりしなければ、週明けには課長にしっかりと完了報告ができる。今頃は奥さんと、最近生まれたばかりの子供と三人で家族水入らずの時間を過ごしていることだろう。とはいえ、そこに水を入れないようにしたのはあたしなんだから、多少は感謝してもらえないと悲しい。

 もとから没頭すると周りが見えなくなる性格だ。壁や柱がなく、広くぶち抜かれたオフィスの中で明かりが点いているのはあたしのいるセクションだけで、とっくの昔にみんな退勤したらしい。そりゃそうだ。たとえ一緒に過ごす相手がいなくても、今日くらいはとっとと帰りたくもなるはずだ。
 クリスマスイブ。特別な日。あたしはそうやって書かれている看板の上から白いペンキをぶっかけて力づくで文字を抹消し、あわせて殴り書くように「普通の日」と上書きした。その結果が、今だ。

 けれど結局どこか満足できていないのは、仕事をしている間は思い出さないで済んだけれど、わずかに暇な時間が生まれた途端に流れ込んでくる記憶のせいだろう。車の窓を開けて閉めるまでの少しの時間で入り込んでくる虫。こっち見るなよ……と念じながら隣のクラスメイトに小さく折った手紙を渡す瞬間に黒板から振り返る教師。タクシーを降りてエントランスに入るまでの瞬間にシャッターを切るパパラッチ。

 今もあたしの中に油汚れみたくしつこく居座っている、かつて愛した男と、見知らぬ泥棒猫。

 ちっ、と心の中で舌打ちしながら席から立ち上がる。

「きゃあ」
「うわっ」

 あたしの中では、既にこのオフィスに残っているのは自分一人だという認識だった。けれども無駄にでかいパソコンのモニターに隠れて、もう一人だけ同じように残業に勤しんでいた存在がいたらしい。そうやって分かっていたなら、こんな情けない驚きの声を上げたりしなかったのに。
 それ以上に驚いていたのは、そんなあたしの素っ頓狂な叫び声を聞いた、もう一人の人物だったに違いない。

「……大住おおすみくん」
「あー、びびった。なにかあったんですか、久瀬さん」

 頭の後ろをかきながら、そう言って辺りを見回す大住くんは、今年入ってきた新入社員。ようやく入社から半年を超えて、少しずつ社会人としてのマナーとか、たいして覚えなくてもいい、下らない社内の不文律とかも身についてきている。
 仕事の腕は当然まだまだだけど、そんなもん誰だって最初は同じ話だ。直接の教育担当ではないけど、あたしは入社間もない彼に「何回同じこと訊いてもいいから、思い込みで作業したりだけはしないでね」とこっそり耳打ちしていた。その甲斐あってか、あたしには怖がったりせずに話しかけてくれるようになって、今に至っている。

 大住くんは童顔で、まだ少しスーツに「着られている」みたいな見た目なのも個人的には安心するポイントだった。あたしは初めてのOJTがとんでもないチャラ男だったので、そういう子が入ってきたらどうしよう……と思っていただけに、入社式後に配属先に挨拶しに来た大住くんを見た時に、心の中でほっと胸をなで下ろしたのを思い出す。

 いま、大住くんはエナジードリンクの缶を片手にパソコンに向かっていたらしい。机の上はまるで国家非常事態宣言が発令されたみたいな騒ぎになっている。特に就業時間中にサボったりしているわけでもないようだし、何かにつまずいているのだろうか。

「久瀬さん?」
「あ、うぇ」
「うぇ、って大丈夫ですか。疲れてます?」
「ん。……いや、大丈夫。オッケー」

 オッケーには見えねえ、という本音が見え隠れする苦笑いがこちらを見つめて、こくこくと頷いた。

「そうですか、だったらいいんですけど。……んで、さっきの叫び声はいったいどうしたんです」

 あんたが居たことに気づかなかっただけ、なんてことは口が裂けても言えなかった。
 ええい仕方がない。この脳の領域を使うのは、稟議決裁で想定していなかった質問が飛んできたときだけなのに。

「ちょっと、椅子が急に下がったからびっくりした」

 言い訳にしてはあまりにもお粗末すぎたけれど、あたしはとっさにそんな出まかせを口にして、苦笑いを浮かべた。大住くんは「そうでしたか」と答えて、またパソコンに向かい始める。
 そして、その表情には隠しきれない疲れが滲んでいることに、あたしは今更気がついた。

 これまでの時間も、彼は一人で仕事と戦っていたのだろう。それに今日は、わからないことをあたしに訊こうと思っても訊けなかっただろうな、きっと。没頭している間はずっとキーボードを叩いていた自覚があるし、ただでさえあたしはタイプ音がうるさいのだ。残業中になると指摘する存在がいなくなるから、気にすることすらしていなかった。

 身近にいる他人すら大切にできないのに、誰かひとりだけのことを大切になんてできるものか。急にわきあがってきたそんな気持ちが、あたしの頬を打つ。頭の中でやわらかい肉を打つ音が響いたのと同時に、他人への思いやりを忘れた時点で、そこからの「自分のことを愛してほしい」「大切にしてほしい」という気持ちは全て、ただの独り善がりに変わるのだと気づく。
 あたしはいつの間にかそんなふうに、安っぽい女に成り下がっていた。それに気づけないままで好きだった男に去られ、空いた心の隙間を仕事で埋めるなんていう、無体な行為に足を突っ込んでいる。

 そうじゃないだろ、おまえの今やるべきことは。

 二人以外に誰もいない、二十六階のオフィス。低く唸るパソコンのファンの音と、時折カタカタと鳴る大住くんのタイプ音だけが、広いフロアの中によく響く。
 んん、と声にならない苦悶の声を大住くんが三回洩らしたところで、あたしは席を立った。いつも気にしたことがない、椅子のキャスターがごろごろとカーペットを転がる音すらも、何度もし取ったみたいにクリアに聞こえてくる。

「大住くん」
「どうしました、久瀬さん」
「まだやるの、仕事」

 あー、と大住くんは手にした資料とパソコンの画面を交互に見比べた。あたしもそれを覗き込んで、大住くんが何の案件に取り組んでいたのかを理解する。

「来週末期限なので、終わらせておいた方がいいかなと思って」
「あとどのくらいで終わりそう?」
「まあ、一時間くらいですかね」
「それ、バッファ多めにとってるから続きは来週……いや、ぶっちゃけ仕事納めまでに終われば大丈夫だよ」
「そうですか? まだその加減がよくわかんなくて」
「だからさ、もし大住くんがよければ、これからご飯食べに行かない?」
「えっ」

 もう帰んなよ、あるいは、手伝うよ、という言葉を想像していたであろう大住くんは、さっきのあたしと大差ないくらいの気の抜けた声をあげた。思わずあたしはこらえきれずにくすくすと笑ってしまう。まだあどけなさが残る大住くんの頬が、お酒も飲んでいないのに朱に染まった。

「それとも、もしかしてこの後、予定あるかな? クリスマスイブだし」
「いえ、何もないですけど」
「なら、あたしに付き合ってよ。心配しなくても奢るし、ちゃんと終電で帰してあげるから」
「わかりました。……でも、いいんですか」
「あぁ、あたしはいいの。そうでなきゃ残業なんかしてない」
「へ?」

 油断しすぎて、思わず口が滑った。

 答えないまま、あたしは声を張って言い放つ。

「さて、三十秒で支度しな。行くよ」
「あと十秒だけおまけしてください」
「やだ」

 そんな薄情な、と口で言いながらも大住くんはどこか楽しそうに帰り支度をはじめた。修学旅行の夜に部屋を抜け出す前みたいな、ちょっといたずらっぽい笑み。それだけで、さっきまでの疲労の色が少し薄まって見える。
 オフィスの出入り口で、いーち、にーい……とわざとらしくゆっくり時間をはかりながら、あたしは大住くんが身支度を終えて、ひょこひょこと駆けてくるのを待った。


***

「ってわけでさ、どう思う。少年」
「さすがにもうおそれ多くて、僕は自分のことを少年だとは思えませんけど」
「じゃあ、中年」
「そこまでは行ってないですし、要するに今日の久瀬さんが残業してたのは、一種の気分転換だったってことですね」
「そうだよ。いまこの瞬間にもあいつらは乳繰り合ってんのかなーって思ったら、あたしゃサンタにプレゼントとして世界の破滅を願ってしまうわ」

 ここまで何杯飲んだかをカウントするのは、とっくに止めていた。
 絶対にこんなことを後輩にはしたくなかったのに、あたしは大住くんを連れてきた居酒屋で最初の一杯を飲んだだけで、なぜか視界がゴーグルなしで水の中へ叩き込まれたみたいになってしまった。今はあたしも落ち着きを取り戻したけど、あたしたちは傍から見てどう思われているのだろうか。
 聖夜に声もあげずにぼろぼろと泣いている女と、あたふたしながらもそれを慰めようとする若い男。それがさっきまでの構図だった。ふざけんな、あたしもまだ若いよ。

 大住くんはざぶざぶと酒を飲み干すあたしと対照的に、今も一杯目のビールをちびりちびりとっていた。

「それだけ好きな人に出会えたっていうこと自体は、よかったんじゃないですか」
「たとえどれだけ好きだとしても、別れたらなんの意味もないでしょ。相手にはあたしのことなんて、もう欠片ほども残ってないんだ。なのにあたしはいつまでも、皮膚の奥に刺さり込んで埋まった相手の欠片が、動くたびにちりちり痛むんだよ? 不公平じゃん、そんなの」
「言い得て妙ですね、それは」

 大住くんは、器の中で湯気を上げていたハンペンを上手に箸で小さく切って口に運ぶ。当日では、おしゃれなイタリアンとかのお店はもちろん空いていなくて、あたしたちがいま居るのは完全なる大衆居酒屋である。逆にこれでよかったかもしれない。周りがカップルだらけの店で悲恋話を披露するほど、あたしは悪趣味ではない。

 やがて咀嚼そしゃくが終わった大住くんは、のんびりした口調で言った。

「久瀬さんは、これからどうするんです。元彼を奪い返しますか、その泥棒猫から」
「……わかんない」

「ほう?」と続きを促しながら、大住くんは涼しい顔でビールを喉に流し込む。さっきよりもほんの少し、多く。

「なんか、最初はそれも考えなくはなかったんだ。彼を取り戻したい、また自分に振り向いてほしいって思ってた。そのはずなのに、今はなんか、よくわかんなくなっちゃった」
「わからないですか」
「うん。いくらあたしが泣き喚いて彼を取り戻したとしても、それは彼にとって幸せな結末じゃないんじゃないかって」
「それ、ちょっと違いますね」
「なにが?」
「久瀬さん。僕は正直言って、相手の男や彼女がどうなろうと、そんなもん知ったことじゃないんですよ」

 いつも笑顔を絶やさず穏やかな大住くんの瞳は、いま、どこか静かに燃える怒りに満ちているような色をしていた。

「どういうことよ」
「相手の男が幸せか不幸せかなんて、久瀬さんが考えなくてもいいことですよ」
「そうなのかな」
「じゃあ、相手の男が久瀬さんを振ったとき、相手は久瀬さんの幸せや苦しみを考えてくれていたと思いますか。もちろん久瀬さんが、それでも……って言うのなら止めはしませんけど。でも、自分を捨てた相手の幸せを願うよりも、いまの自分がこれからどうすれば幸せになれるのか……を考えた方がいいんじゃないですか」
「……」
「久瀬さんみたいな優しい女性が、もう自分を愛してくれない男の面影にいつまでも縛られてるのは、もったいないと思いますよ」

 大住くんはさっき一瞬だけ見せた怒りを、最後にはうまいこと隠しながら、静かにそんな言葉を投げてきた。投げたとはいえ、振りかぶるのではなく、アンダースローで。ふよふよと風に吹かれるみたいに空中を漂って、テーブルの上のおでんから立ちのぼる湯気を通り抜けて少ししっとりとしたそれが、胸元に飛び込んでくる。一字一句すべてが肌を突き抜けて、やがてあたしのいちばん奥で、打上花火のように爆ぜた。
 初めてお酒を飲んだときと同じように、かっと身体の芯が熱くなっていくのを感じる。けれど今はその時よりもずっと熱くて、あたしの中にあった虚無感も猜疑心も嫉妬心も何もかも、どろどろに溶かしていく。

 なに、これ。あたしは今、この後輩に諭されてるの? 口説かれてるの?
 今のシチュエーションと、自分の心の温度変化に戸惑いつつも、あたしはなんとか平静を装いながら、胸の中にあった疑問をそっと口にした。

「大住くんさ」
「なんですか」
「きょう大住くんが残業してたのって、ガチで急ぎだったから、ってわけじゃないよね」

 はは、と大住くんは困ったように笑う。その表情でさえも人懐っこく映って、どうしていいのかわからなくなってしまうけど、あたしはそれを悟られないよう、わざと正面から大住くんのことをじっと見つめた。
 それでも大住くんの笑顔に、あたしは小さなヒビひとつ入れることができなかった。

「バレてましたか」
「当たり前でしょ。ファイル見た時にわかったよ。その気になれば、今の大住くんならすぐに終わらせられるような案件だったし」
「わざと手をつけてなかったわけではないですよ。日中は外出してたからできなかっただけで」
「それも知ってる。あたしが言ってるのは、手をつけてからは故意にゆっくり進めてたでしょ……ってこと」
「ええ、それはわざとそうしました」
「どうして」

 なぜだか心臓が破裂しそうな心地がしてきて、あたしは両腕で自分を抱きしめるようにしながら、テーブルに前のめりになった。
 大住くんはそれでも身じろぎひとつしない。むしろ余裕が生まれているようにさえ見えた。

「少し前から久瀬さんの右手の指輪が消えていたことに、僕は気づいてました。そして今日はクリスマスイブなのに、あえて残業を引き受けていた。もうここまで条件がそろえば、答えは一つしか出ないじゃないですか」

 大住くんはそうやって、わざと核心に踏み込まなかった。しかし、いつもはあどけなさを感じるその眼差しも、グラスを握る手も、あたしの目には今日はやけに男らしく、たくましく映っていた。そして、表情はむかつくくらい落ち着き払っている。まな板の上で魚がいくら暴れようと、眉ひとつ動かさずに包丁を振り下ろす料理人のようだ。

 そして、あたしには見えるのだ。少し先の未来で、自分がこの後輩の手できれいに活け造りにされている様子が。
 って言うか「どうして」なんて今更野暮なこと訊いてんじゃないよ、あたしも。理由もないのに残業するわけがないだろ、クリスマスイブに。

 今日はこんな日ですし、と大住くんは前置きしてから、言葉を続けた。

「僕は残業中もずっと、クリスマスプレゼントとして、久瀬さんが自分の恋人になってくれる権利を望んでたんですよ。赤服の白髭老人に。だからずっと待ってんですけど、なかなか届けに来ないんすよね。あのおっさん」

 白々しいけど嫌味っぽくないその演技に、あたしは思わず吹き出してしまう。その様子を見て、大住くんも照れ臭そうに笑っている。
 そうしてすっかり油断しきった大住くんの右手がグラスから離れたところを見計らって、あたしは自分の両手で包み込むようにして、その手を掴んだ。

 さすがに予想していなかった、とでも言いたげに目を丸くする大住くんに、あたしは先輩としての威厳を混ぜた声色で言い放った。

「サンタがいつまで経っても迎えに来ないから、自分で来てやったわよ」


***


 会計を済ませて、店を出た。いくら今日が聖なる夜でも、都会の夜風は情緒も何も感じられず、ほこりっぽくて、ただ冷たいだけだった。

 さっきまではただの後輩だった「彼」の手をそっと握りながら歩く。そうやって、ケヤキの並木がイルミネーションで輝いている中を進んでいると、なんだか面映ゆい気持ちになってくる。

 その輝きから視線をそらしながら、あたしは彼にだけ聞こえる音量で呟いた。

「なんかさ」
「はい」
「いかにもな”カップル感”があって、やばいね」
「何かそれ、事実と違うんですか」
「いや、違わないけど」
「酔ってますね、久瀬さん」
「きみには言われたくない」

 やれやれ……みたいな困った笑みを浮かべつつ、彼が手首の時計を見やった。

「あ、もうすぐ零時—――」

 彼がそうやって言いかけたところで、煌々と輝いていたイルミネーションの光が、一斉に消えた。どうやら、ちょうど消灯時刻が来たらしい。
 あたしたちが立ち止まると、周りの通行人たちも足を止めて、ざわざわとしはじめた。いきなり圧倒的に明るかった光が消えたので、みんなすぐには夜の暗闇に目が慣れてこないのだろう。

 今。

 あたしは暗闇の中で、辺りを見回していた彼の頭をぐいと引き寄せて、強く口づけた。
 一瞬、彼が驚いて目を見開くのがわかった。ほんの一、二秒くらいだったのに、唇を離したときは、その数倍くらいの時間が経ったような感覚があった。
 自分からそうしたくせに、なんでそんな行動に出たのか、すぐにピンと来なかった。
 でも、なんか、頭の中で響いたんだよ。「今」って。

 相変わらず、ぽかんとしている彼の手を引きながら、人の流れに乗ってもう一度歩き出す。しかし一歩、また一歩と進んでいくうちに、少しずつ霧が晴れるみたいに、その理由がわかってきた気がした。

 愛さえあれば何もいらない、何も怖くないと思っていたけれど、それを手に入れた瞬間、今度は愛そのものを失くすことが怖くなってしまう。あたしたちはずっと、今もすぐそばにあるものがふいに消えて、永遠に失われることを恐れながら生きている。数秒後に世界がどうなっているかなんて、誰にもわからない。

 ただ、確かなことがひとつだけある。
 いま、あたしはもう二度と手に入れられないと思っていたものを、手中におさめている。自分ではなく他者を愛する幸せを、今度は絶対に手放したくないし、誰にも奪われたくはない。
 もう二度と味わうことができないと思っていたこの気持ちを、静かに口に含んで、ゆっくりと噛みしめた。むせるような甘さの中に、ほんの少しのほろ苦さ。飲み込んでしまうのが惜しくて、いつまでも口の中でもてあそんでいたくなる、とろけてしまいそうな味。

 世間に踊らされているようで、なんだか悔しいけど。

 それは「聖夜」と呼ばれる今日の夜に、ぴったりの味だった。


 ふいに彼が「久瀬さん」とあたしを呼んできた。

「なに」
「まさに今この瞬間、終電が出発しました」
「それはよかったね。あたしの家の方がここから近いし、泊まっていきなよ。ってか泊まれ。帰さない。あした休みだし」
「いやあ……なんとずるい人だ」
「言っておくけど、きみ、もう逃げられないよ。返品不可だから、あたし」

 近づいてきたタクシーを、へーい、と手を挙げて止めた。ハザードを上げながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。


 縁もゆかりもない人の降誕祭を言い訳にして。

 あたしはもう一度、自分以外の誰かを愛せる世界を手に入れたのだった。


<!---end--->


執筆時BGM : 遠い街のどこかで… / 中山 美穂

 



あとがき

 本作品は、蜂賀 三月さまの企画による創作の輪を広げる #アドベントカレンダー2021 への参加作品です。
 2021年12月25日、すなわちクリスマスまでの期間、25名の創作作家たちがそれぞれ担当する日に、ひとつの作品を投稿してカレンダーを作るというものです。

 まあ、よく考えたら私がいまさらこんなことを説明せずとも、みなさんきっとここまでに他の方の作品読んでますよね。
 なんといっても今日は最終日、12月25日ですし。

 みなさん、クリスマスって今日の方ですからね。
 12/24でアドベントカレンダーも終わったと思ってる人、戻れ! カムバック。

 そして、いるかどうかは知りませんが、西野の作品を読んだことで、このアドベントカレンダーの存在に気づいた……という方。
 ぜひ、12/1から順番に読みすすめてみてください。「西野のせいでもう小説はうんざりお腹いっぱいだ」という方も、小説ではなく詩や絵を投稿されている作家さんもいらっしゃいますので、ご安心を。


 皆様にとって、今年のクリスマスが佳き日となりますように。
 まあ私は仕事以外の予定が何もないですけど(コンビニで買ったおでんを貪りながら)。


2021.12.25 
西野 夏葉 @おでん食べる時はむせっけえるほどのカラシを入れます。ウメーんだコレが

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西野 夏葉
お読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、創作活動やnoteでの活動のために使わせていただきます。ちょっと残ったらコンビニでうまい棒とかココアシガレットとか買っちゃうかもしれないですけど……へへ………