夏目漱石「坊っちゃん」発禁始末

 日本の五大文藝誌の壊滅は、依然赤字の部数がさらに低下するより先に訪れた。抵抗勢力による大規模な政治展開が、加速的に出版社編集部を萎縮させたのである。一方で漫画の週刊少年スキップと週刊少年ブックはまだ根強かった。週刊少年マンデーは橋高流君と赤森柔昌の強力な擁立によってのみしか成立しえない雑誌であって、いまだ作画だけは別人の橋高原作のスピンオフと、完結しなかった赤森の漫画の、キャラクターだけが永遠に裁きつづけるオリジナルアニメ映画の宣伝のみが毎年連載されていた。
 あるテレビ局が夏目漱石の「坊っちゃん」をドラマ化した。そのドラマは忠実に再現したもので、赤シャツのシャツの赤さ、野だいこのヘイコラ具合、漢学の先生の空気っぷり、銭湯をのびのびと泳ぐ主人公の優雅さ、生徒のクソ餓鬼感が全体を盛り上げにかかって、最後の、坊っちゃん読者全員に共有されている赤シャツ野だいこへ糞味噌卵投げつけシーンで、ラピュタのバルスのごとき、半沢直樹の倍返しのごときネット上で名シーンになったのである。
 しかし再放送のタイミングが悪かった。
 翌年、四国全体で原因不明の食中毒が学校給食で発生した。児童、役所の職員、大学の職員および大学生に広域の罹患が見られた。厚生労働省は原因を鶏と推定したが、養鶏業の大勢は反発、軽はずみな発言だと裁判に発展し、結局実地検証でも原因は不明だった。
 このときちょうど再放送で、卵なげつけシーンの最終回を放映したばかりで、不謹慎論が続出、テレビ局は謝罪へ追い込まれた。さらに某保守党議員がこれを良い機会に坊っちゃんを松山の侮辱立派な差別小説だと発言し、さらにYouTubeとSNS上で右翼系政党の党首が、夏目漱石は明治44年に文部省からの文学博士号授与を辞退した反日だと喧伝、喧喧囂囂の議論が巻きおこった。
 この食中毒+差別小説で増幅した感情に実際いじめも発生し、教育委員会は重大事態と認定、テレビ局への弾圧勢力への批判勢力、批判勢力への批判、批判勢力への批判への批判などが拡散し、SNSでもまあまあ盛り上がった。

 そして初の食中毒の児童の死亡者が出、さらに自殺者が現出したのである。
 人物の名前は、守山能生、養鶏業にたずさわっていた。坊っちゃん論争と絡まった四国への風評被害で生計が成り立たなくなった守山は係争中だった国との裁判をよそに、ひっそりと納屋で首を吊った。
 衆営書店の文藝誌「ぎんが」は、まっさきにSNSの守山の死を悼む抵抗勢力による批判に耐えきれず、刊行を予定していた千秋楽岩と大川月八による夏目漱石礼讃本の発売中止、六日後にはすでに著作権の切れていた『坊っちゃん』の文庫版解説が問題視され、販売中止・回収絶版を決定した。これに株式会社MARUYAMAが追従し、文庫の刷り直し差し替え処理を決定、唯一古淡社と粒嵐書店は矜持からかめげずにいたものの、時間の問題と思われた。抵抗勢力への批判勢力である藝術大学の千代川真紀子は、キャンセルカルチャー暴徒によるファシズム、全体主義傾向とののしり、社会学者・台東信次は言論テロリズムだと形容した。しかし抵抗勢力のシーサイド明美はYouTubeで口汚く千代川と台東などのもろもろ、松山の敵、レイシスト、差別主義者と罵倒、アニメ「だいがくせいかつ」原作者の大寺律法は、言論の自由を盾にふりかざして自殺者を発生させうる、当事者を無視した危険小説だとレイシズムに認定した。ついでに『吾輩は猫である』は猫当事者を無視した差別小説、人間を揶揄した差別小説として弾圧されることになり、『こころ』はミソジニーの塊として女性差別小説としてフェミニズム観点から弾圧され、「羅生門」も悪人が老婆の着物を奪う犯罪を擁護する差別小説、『高瀬舟』も殺人擁護差別小説、ひいては中島敦以外全部差別小説だと勝手に認定しはじめた。

 そのとき四国に未確認飛行物体が降り立った。

 宇宙人は人間の価値観からは全身血色の醜悪な見た目をしていたが、差別はできない風潮だし失礼なので、人間代表が「ようこそ地球へ。すばらしい恰好ですね」と言ったら、セクハラだとSNSで誰かに騒がれた。そしたら宇宙人が
(ああ、ここはいい星だ……)
「光栄です」
(人材が豊富ですな。買わせていただきたいのですが)
「何をですか」
(人間ですよ。おや、あなたの星では奴隷はないのでしょうか?)
言われて戦慄した。野蛮種だと思っていたら、
(おや、いるじゃないか)
触手のようなもので示す。附帯した研究者を指して(研究用奴隷)、対話するキャスターを指して(お喋り用奴隷)、派遣社員を指して(奴隷用奴隷)などと言いはじめた。ものすごい剣幕で抗議したら、
(いいえ。あなたがたもわたしら宇宙人を敵対勢力と差別してきました)
「なんのことだ」
(ウェルズの「宇宙戦争」は? タコ型火星人として揶揄したでしょう。ヴェルヌも筒井康隆も星新一もわれわれにたいする侮辱であり、われわれはあなたがたにウェルズとヴェルヌと筒井康隆と星新一とラヴクラフトと、一切合切のSF小説、幻想小説、怪奇小説の販売中止を要求します)
 するとどこからか狼男や目玉親父やヴァンパイヤや雪男やフランケンシュタインやクラーケンやニャルラトなんちゃらやが出てきて、ちゃちゃんこ坊やとともに
(差別!)
(差別!)
(差別!)
 とシュプレッヒコールをはじめた。
(したがわなかった場合は……)
「場合は……?」
 思わず息を呑んだ。
(そちらの法律で、名誉毀損と出版差し止めで裁判いたします)

 そして人間はすべての裁判に敗訴した。
 いまでは竹取物語も源氏物語もシェイクスピアも差別文学として出版できない。

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