私にとっての写真を撮る意味
写真を撮り始めたのは小学生のころ。
今も写真を撮っていますが、昔とは違うスタンスで撮ってます。
長々と書いてますが、お付き合いください。
【小学生 撮影をはじめたころ】
もの心がつくぐらいのころから、ドライブ好きの祖父が運転する車に乗って、少し離れた電車区に電車をよく見に行っていました。
電車区の上を越える陸橋から、電車や通過する貨物列車を見下ろしていました。
そんな幼少期を送ると、小学生になっても「鉄道好き」です。
今じゃ「鉄ちゃん」って呼ばれますが、そんな言葉もない時代です。
カメラを持って初めて電車を撮影に行ったのは小学4年生のころ。
オヤジにハーフのカメラ(12枚撮りのフイルムで24枚撮れる)を借りて、一人で電車庫に止まっている電車を撮影に行ったのを覚えてます。
撮影の目的は、叔父からもらった鉄道模型をいじるために実物車両の撮影です。
しかし、カメラの知識も操作方法もまともに知らない小学生の写真は、撮る前から結果は明白です。
人生初の写真は、露出がアンダーだったり、オーバーだったり、ピントがあってなかったり、24枚撮って1枚も満足に撮れてませんでした。
オヤジのカメラは、機械式カメラで露出計もなし、撮影距離は目測でレンズで距離を設定する代物ですから今でも難しいかもしれません。
鉄道模型でレイアウトを作りたかったので、鉄道施設も撮ってました。
そして、鉄道模型を制御するために目をつけたのが「コンピュータ」です。
当時は、「ラジオの製作」にボードコンピュータの作り方が連載されていました。それを穴が開くほど読み返しながら、CPUやICを買い込んできて半田ごて握ってコンピュータを組み立ててました。
今考えると、超先進的な小学生ですね(汗)
小学も高学年になると、写真クラブに入会しました。
「カメラがないと死ぬ」っていう騒ぎはこの頃のことです。
鉄道が主でしたが、友人の誘いもあって夕焼けや夜景も撮ってました。
トラウマの原因となったライカ教の人と出会ったのもこの頃でした。
小学生のころは、鉄道という趣味に写真が「ついてきた」って感じでした。
【中学生 写真部のころ】
中学校には、写真部がありました。
小学校の時の写真グラブの友人と連れ立って入部しました。
それまで、カラーフイルムで撮影して、写真屋に現像とプリントをお願いしていたのですが、中学の写真部はモノクロで現像からプリントまで自分たちの手で行います。
理科準備室の一画に暗室がありました。
元は倉庫か何かだったところに水道を引いて暗室にしつらえてありました。
そのため、入り口のドアは2重扉ではなくて、1枚ドアだったため、プリントを始めると、その間は誰も出入りできません。
プリント作業中は「治外法権エリア」でもありました。(プリント以外に何していたかは内緒ですw)
現像液や、定着液などは部費で賄ってもらえたので、写真屋に現像・プリントをお願いしていた分のこずかいをフイルム代に全て使えるようになり、撮影枚数も増えました。
しかし、被写体は鉄道ばかりw
そして、写真部の仕事として、学校行事の撮影があり、運動会や修学旅行などがあり、ブレ、撮り忘れ、変顔の瞬間を撮らないwなど「失敗が許されない撮影」など胃を痛めそうなものもありました。
学校写真を撮ってる街の写真屋さんの苦労がわかります。
厳しい先輩がいましたが、写真部の活動は、化学の授業と、美術の授業を合わせたようなもので、とても楽しかった思い出ばかりです。
中学の時もやはり鉄道に写真が「ついてきた」って感じです。鉄道模型のために写真を撮ってました。
そういえば、ファーストガンダムが放送された時で、300円ガンプラにも熱中してました。友人と畳1畳の大きさのレイアウトを作ってに並べてたなぁw
その時の写真を探してもでてこない。無くしてしまった_| ̄|○ il||li
【高校生 写真部はワンランク上】
高校も写真部に入部しました。
暗室も2重ドアの立派なものでした。
モノクロを扱うのは当たり前ですが、カラープリントもできる設備がありました。
何度かカラープリントしましたが、フィルターを交換しながら3回焼き付けるという方法で、タイマーが調子悪くて色があわなかったり、色かぶりするなど、まともにプリントできませんでしたw
中学とは異なり、部員の持ってる機材からしてワンランク上でした。
中学のころは、全員135フイルムでしたが、高校になると中判の先輩もいました。(多分、ブロニカだったような)
部員は canon F-1を買うかどうかとか、ズームレンズが凄いとかで盛り上がる中、機材偏重の感じが嫌で1年余りで退部しました。
中高と写真部に所属してましたが、写真は常に手段であり、カメラは記録するための道具でした。
【社会人になったころ】
社会人になると鉄道熱も冷めて、カメラを持つことも、写真を撮ることもほとんどありませんでした。
親は「なぜ?」みたいな顔してましたが、私としては当たり前といえば当たり前です。
一応、バカチョンカメラ(シャッターボタン押すだけで撮れるカメラ)を持ってましたが、デートの時ぐらいしか使いませんでした。
つまり、今のスマホで写真撮る感覚です。
【必要だったので写真を再び撮り始めたころ】
子供が生まれると、100%動画で記録を残すようになり、編集してビデオ作品を作ってました。スチル写真なんて撮る機会は皆無でした。
そして、インターネットが普及した最初のころは、ホームページの作成にいそしんでました。ホームページ・ビルダーってソフトが出る前でしたので、まともな作成ソフトもなく、直接HTMLを書いてました。
その頃は多趣味で、特にアウトドア系をコンテンツにしてました。
GoProのようなものはなく、大きなビデオカメラでは、アウトドアに不向きだったので、スチル写真を撮るようになりました。
当時、プロバイダの回線が細く、動画が辛かったこともあり、写真をホームページにUPするのが主でした。
その後、車いじりにハマり、多数のDIYネタを紹介するのに手順単位で写真を撮ってました。
ブログでも写真をUPしてますが、記録や状況説明のためでした。
やはり、この頃も写真は記録に使っていて、カメラは写れば何でも良かったのです。
【本当に写真をやろうと思った時のこと】
オフクロが亡くなったとき、まともな写真が無い事に衝撃を受けました。
遺影写真を選んでいる時に気が付いたのですが、写真は睨みつけるようなものばかり。普段はよく笑ってたのに、写真の中のオフクロは笑ってなかったのです。
でも、大勢で写した集合写真のオフクロは笑っているのです。
オフクロは撮られるときは、きっちりとポーズをとってることが多かったのですが、そんなポーズをとるオフクロに対してピンと張りつめた気持ちで撮ることが多かったのです。
一緒に写っている人も、はやり張りつめてます。
この時、これらの写真の意味を理解しました。
被写体は撮影者の鏡だということを。
そして、もう一つ思ったのは、何に感動したのだろうかということ。
これまで撮ってきた写真は、「記録を残す」でした。
「自分の心が動いたもの」を撮りたいと思ったのでした。
↓撮影者の緊張感は動物にもわかるようですw
【自分の心が動くもの】
一言でいえば、「はかなく、無くなっていくもの」
風、光や影のように、どんどん変化していき、2度と見られないものや、一瞬顔に現れた心など。
最近、植物や岩でも撮るべき瞬間があることがわかってきました。
どんなモノでも発する、ふわっと現れてスーッと消えていくものを撮りたいと思ってます。
【私にとっての写真を撮る意味】
今の私にとっての写真を撮ることは、被写体の息遣いを感じることです。
そして、私にとっての写真を撮る意味は、私の心が動いた世界を共有するためです。それは、スゴイ光景かもしれませんし、その辺の他愛もないことかもしれません。昔は全く考えもしなかったことです。