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丁寧な私のころし方
おはよう。
今日は「この身体を運用する主人格」としてではなく
「唯」という人格として、小噺を。
解離性同一性障害についてはこちらを参照してください。
過去の記事で周囲の人間からの呪詛に捕らわれていると言った話をしていたと思う。
現状を言えば、過去のような手酷い呪詛を吐く人間はもう殆ど居ない。勿論、ゼロでは無い。
未だに心無い言葉を向けられ、私のみならず、他の人格でさえ苦渋を舐めた事があるだろうと思う。
では、何が私を未だに絞め続けているのか。
先程私は『呪詛』という言い回しをした事に気が付いていると思う。
その理由は、2つ前の記事のタイトルにさせてもらった、私を構成する呪いの言葉 という所からきている。
呪い(のろい)は、人または霊が、物理的手段によらず精神的あるいは霊的な手段で、悪意をもって他の人や社会全般に対し災厄や不幸をもたらせしめようとする行為をいう。特に人が人を呪い殺すために行うものは、古来日本では呪詛(じゅそ/ずそ/しゅそ)、あるいは対象を「悪」と見做して滅するという建前の上で調伏(ちょうぶく/じょうぶく)と言われることもあった
これだけをみれば、私は確かに過去、母や義父や、近隣の子供達、大人達、同級生、先輩、上司、元友人、元恋人、偏見を持つ大衆──沢山の人から呪われ、呪詛を吐かれたと思う。
では、その呪詛を吐かれた人間は、勿論呪われるのは想像に易いだろう。
ひとたび呪われればお祓いに行くか、呪詛返しでもしなければ、蟲が這いずる様にずぅっと心を蝕み続ける。
であれば、私にとっての「お祓い」は全てのトラウマから解消される事だろうと思う。
そんな事はすぐには出来ない。
では、呪詛返しなら──?
出来ない。
出来ないんだ、私には。
あれは、とても痛くて。とても苦しくて。暗くて、怖いものだ。あんなおぞましいものを、私はとてもじゃないけど、あれらに返す事なんて出来ない。
だから、私はそっと私に呪詛を届ける。
「我慢が美徳」
生活や人間関係に不都合があった時。
若しくは著しく貧困に至った時。
又は自分の力ではどうにも出来ない状況に陥った時。
私が私に向けて唱える呪い。
幾度と無く母に刻まれまた呪いは、私が私を殺す為のまじないになった。
何かあるとブツブツと我慢が美徳、我慢が美徳と繰り返している。
これは5歳の頃から母に10回唱えろと言われた癖だと思う。
我慢が美徳を唱えると、離人症状が出る。
薄いスクリーンが私の前に降りる感覚になり、世界と私が少しの間切り離され、なんとも慈悲深い気持ちになる。
この世の全てを受け入れ包み込みどんな悪辣も受け入れよう、どんな苦境も引き受けようという私になれる。
聖母マリアのような、観音菩薩のような。
全てを、全てを耐え忍ぶ事が出来る。
愚かな自己犠牲を愛だと宣う事すらできる。
丁寧に自分の心を殺して、殺して、無かった事にして、綺麗な笑顔を作って、無邪気な声色で。
「私は大丈夫だよ」
という。
どうすれば、私は私を呪わなくてすむのだろうか。
未だに分からないまま、今日も「我慢が美徳」といって、丁寧に私は私を殺している。
どうか、私の愛する友人達は、一日も早く呪いから解放されて、一日でも多く笑顔で居られますように。
唯
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