海と雲
ある日の仕事帰り。日付変更線が迫っていた。
スマートフォンで時間を確認して、ため息がでる。もしかしたらこの瞬間が、いちばん私のHPを削ぐのかもしれない。見たかったドラマは終わっているし、お風呂に入って寝るだけのために家に帰る。さぁーと、心の水が減って、かさかさになるのを感じた。
「辞めようかn……」までいいかけて言葉を飲み込む。まだセーフ。ぎりぎりセーフ。かたちにはなってない。言霊にもなっていない。
「まもなく○番線に、○○行きの電車がまいります」ぴんぽーん、ぴんぽーん、と固い警報音が鳴る。
黄色いぼつぼつ、下がらなければならないラインの淵に、忠実に並ぶ私。
もう1回、スマホを見る。そういう設定にしたからだけど、おやすみモードに切り替わっていた。ふう~と、深呼吸のふりをしたため息を吐く。
電車に乗ると、席はぽつぽつと空いていた。
この時間まで戦った人独特の倦怠感と疲労感が、水のように溜まっている。私は、とぷん、とその空間に入るつもりでいるけれど、実際は合流しているのだ。
電車は海。いろんな場所から倦怠感と疲労感が合流して今、この電車の中でひとつの海になる。駅に着くたびちょっとだけ吐き出されてゆくけれど、同じくらい乗り込む人。けっきょくの水量は変わらない。
つり革に捕まりながら、ぼんやりと窓を見る。大きな文字の看板。ぽつぽつと付いてる明かり。ほとんどを占めている夜。勝手に流れていく景色。勝手に運ばれる私。新雪に自分の足跡をざくざくとつけるような、次はどこを踏もうかな? という冒険心はない。ずっとあるレールの上をたたん、たたん、と進んでいく。
ふと、窓を見ていた焦点が自分の顔になったとき、ぎょっとした。
今にも泣きそうだった。
ああそうか。私は泣きたかったのかもしれない。
自分の辛いを慰めてあげるのは自分しかいないという事実に、ときどき足元を掬われそうになる。誰かに、「お疲れ様」だけでいいから言ってもらいたい。「頑張ったね~」だけでいいから言ってもらいたい。
「まもなく、○○~○○~」
駅に着くと、前の席に座っていた人が降りて席が空く。ふう、と体の力を抜いて席につく。さっきまで見ていた窓の景色とは違って、私の対面に座っている人たちも視界に入った。
席の端っこ、スーツを着た男の人が座っている。推定40代ぐらい。左手に結婚指輪。私と同じように、この海に合流した人。私よりも重そうな責任という荷物が、ちらりと見える。膝にのせたリュックを抱えて、気だるそうに頭を傾けている。
すると、おもむろに左手をポケットへ。スマホかなあ、とその一連の流れを、だらりと見ていたら、出てきたのはまさか。
雲グミだった。
雲グミとは、雲のかたちをした乳酸菌の味がするグミだ。インスタグラムやTikTokで大人気になり、一時期どこにも売っていなかった。
それをまさか。こんなところで見れるとは。
男の人は1粒の雲を、ぱくりと口に運ぶ。そして、ふにゃり、と笑った。雲にのったかのように、ふにゃり、と笑ったのだ。
その光景を何人が見ていたのだろうか。
私がごぽごぽと、溺れそうになっていたとき。男の人は、きちんと自分の息をしていた。雲にのって、海から抜け出していた。
私はそれを見て、じわっとまた泣きたくなった。
私も息、自分でしなきゃ。
最寄り駅にあるコンビニに入って、グミコーナーに向かう。雲グミは欠品していた。店員さんに聞くと、「もしかしたら○口側ならあると思いますよ」と教えてもらった。
言われたように、○口側のコンビニに向かう。
グミコーナー、そこに雲グミはあった。
ほら、だいじょうぶ。私も雲に乗れるよ。