ほんとうに寂しいのは、日常が戻ってきてから
楽しかった飲み会の帰り道、ふわふわした寂しさはなんて名前がついているんだろう。大人数の居酒屋から一人の家へ。喧騒から静寂へ。急な静けさに、耳も、体も、気持ちもついてこない。
だけどほんとうに寂しいのは、日常が戻ってきてからだと私は思う。
あの日は非日常で、当たり前に過ごす毎日が私にはある。日常。帰り道に生まれたのは、ただの寂しさの種で、それは日常という水を浴びてじわじわと育っていく。
恋人と別れたときもそうだった。「別れよう」と言われてすぐももちろん悲しかった。「私はもう、あの人の彼女じゃないんだ」そう思った帰り道、泣いて帰った。
でも、それからの毎日のほうが地獄だった。「このお店あの人と一緒に行ったなあ」「この時間いつも電話がかかってきてたのになあ」「この味、きっと気に入っただろうなあ」
「……あ、あの人が忘れてった靴下だ」
そうやって日常の至るところに、恋人の影がちらついた。匂いが香っていた。そして私はそのたびに落ち込んだ。もうあの人はいないし、私はもうあの人の恋人でないことを自覚しなければならなかったから。
昨日の1日をじわじわと実感するのは、きっとこれからだと思う。
朝起きて、会社に行く。先週から引き続きある仕事。新しく設定された打ち合わせ。へとへとになって帰る帰り道。いつもと同じ乗り換えの駅。どぼんとベットにダイブする。明日は火曜日。
私はこれから、ゆっくり時間をかけて昨日話した方々との距離の遠さを実感するんだろう。
昨日の1日は、向こうから橋をかけてもらって対岸に渡れた日なのだと思う。どどうどどうと橋の下を流れる激流を越えて、対岸で素敵な出会いを果たした。縁もたけなわ「それじゃあ」と声をかけて、架けてもらった橋を戻る。私がもといた岸に立ったのを見て、「またね」と言われたあと、橋は外された。
残ったのは、ぽつんと私。どどうどどうと目の前を流れる激流。
まだまだ自分は登山の途中だ。今度対岸に行くには、私自身が橋を作って架けるしかない。もしくは、別のルートで行ける道を探さなければならない。それまでに恐らく、越えなければならない倒木があって、野宿する夜があって、道なき道を進まなければならないときが、きっとある。
寂しいし、怖いし、泣きたくなる。当たり前に過ごさなければいけない日常で、自分の立ち位置を実感させられるだろう。私はまだまだだ。
でも、私はもう知ってしまった。
対岸に人がいることを知ってしまった。それもとっびきり面白い人たちがいることを知ってしまった。昨日はゴールじゃなくて、目指すべき場所。寂しくても、打ちのめされても、それでも対岸に行くんだ。力をつけて、目指すべき場所。