あの日逃げ出したから、今、私はここにいられると思う
逃げ出したほうがいい瞬間、というのはふとやってくる。
例えば昨日まではなんとも思ってなくても、ある朝突然、「逃げ出したほうがいい」場所に変わることがあると思う。悲しいけれど、まあまあ、あると思う。
それは物理的な場所、例えば職場や住んでる家、お店、あるいは土地なんて場合もあれば、心理的な場所、例えば苦手な人や、強い言葉を使う人、多くは人間関係と言い換えられる場所だ。
私は、「逃げ出したほうがいいかもしれない」と予感めいたものがあったら、さささっと離れたほうがいいと思っている。そういう予感は自分の本能のようなもので大抵は的中するし、連鎖すると思っているから。
かつて、私にとっては「名古屋」がそれに当たる場所だった。
もちろん名古屋自体は何も悪くない。ご飯も美味しいし、ちょっとだけ運転が荒いけれど、大阪にも東京にも行きやすい便利な場所だった。
ただ、私の「名古屋」は、苦手だった職場と直結する場所で、自分が暗闇に陥ってしまったきっかけの場所でもあった。だから、もう「名古屋」にいたくなかった。
そこにいることで自分が嫌いになってしまったし、そこで起きた出来事はどれも灰色をしていた。まさに連鎖していた。もう、「名古屋」から逃げ出したくなっていた。ごめんね。
結局、1年半で引っ越した。1年半という数字は、踏ん張れたのか、そうじゃないのは自分ではよくわからない。当時の私は、なかなか踏ん張っていたけれど、「一人前になるには3年」理論からいうとかなり短いとも思う。
でも一つだけ言えるのは、引き際、踏ん張りを辞める瞬間を間違えないでほしい。
逃げ出したほうがいいかもしれない、と予感だけだったものが、逃げ出したいと自分の希望になったら、それはもうSOSだ。
もしかしたら、周りの人からなんやかんや言われることもあるかもしれない。いや、言われるだろう。「まだ早い」とか、「もう少し頑張れる」とか、「今はそういう時期」とか。それはそうかもしれないし、そうである場合もあるだろう。
けれど、その言葉にあなたはいない。「まだ早い」「もう少し頑張れる」「今はそういう時期」だと言っているのは目の前の、あなたとは関係のない人だ。その人の経験則だ。
「逃げ出したい」と思った時、ほんとうに向き合うべきは、自分の見栄やプライドのほう。
「周りから何かを言われるかもしれない」とか、「私、ここで諦めちゃっていいの?」とか、「ちょっと早すぎるかな」とか、あなたが着込み、周りに見せている鎧と向き合うほうがよっぽど重要だと思う。
「逃げ出したい」は、悪い感情じゃない。戦略的撤退だ。血を流さない、無血開城だ。
私には、「逃げ出したい」と思ったことがあって、「逃げ出した」経験がある。だから今、自分がそう思わない、居心地のいい環境にいれることに涙が出るくらい嬉しくなるのだ。