言葉を知らない不自由の中にある、表現の自由
今日、無印良品に買い物に行った。そして、不自由の中にある自由を見たのだった。
どういうことかというと、小学校低学年の女の子が棚にぶつかって、その拍子に商品とプライスカードが落ちてしまった。
隣にいたお母さんは「あらあら」と漏らして、商品を戻そうとしゃがむ。そのとき、ぶつかってしまった女の子はこう言ったのだった。
「あ、いろんなもの転んじゃった!」
転んじゃった!? なんと!? 私はその一言にびっくりした。
そのまま、しょぼんとした顔で「ままぁ、ごめんなさい」と続けた女の子。
「転んじゃったじゃなくて、落としちゃった、ね」とお母さんは訂正し「けがしてない?」と続けて聞く。「うん、大丈夫!」と女の子は答えた。
「もう、大人しくしててね」と、お母さんに手を引かれて二人はその場を離れていった。
もし私が棚にぶつかって、落としてしまったとしたら、「落としちゃった」以外の言葉はきっとでない。当たり前なんだけど、でも、そのことをまざまざと見せられたのだった。
言葉を知らないという不自由さの中で、女の子は自由に言葉を使ったのだった。
言葉を知りすぎてしまった私は、女の子のような言葉の組み合わせはきっともう、いや、おそらく絶対にできない。
正確さ、でいうと、まったくもって不正確ではある。
「転んじゃった」は主語が一人称、自分や私、つまり女の子自身になる。自分以外のものに対して使うなら「転ばせちゃった」が正しいだろう。でもやっぱり「転ばせた」は間違いだから「落とした」が、状況を正確に表している。
だとしても。
彼女は自分がもってる言葉の森の中で、どうにかその状況を表す「転んじゃった」を見つけ出した。もしかしたら森の中には「落とした」という言葉がなかったのかもしれない。
私の言葉の森の中には「落とした」「転んだ」のどちらもある。
あるけど、彼女の立場になったとしたら、最短距離で「落とした」を見つけだし、言葉にして、正確に状況を表す。いや、表してしまうだろう。
ボキャブラリーが増えるのは素晴らしいことだ。自分が言いたいことや、伝えたいことを自分の思った通りに伝えることができる。知っている言葉が増えた分、できることも増えた。
でも同時に、取りこぼして、できなくなってしまったことにも気づかされた。
それは、彼女のような言葉の組み合わせ方。
「こっちのほうが正確だな」「こっちのほうが正しいな」、そうやって、何かの幅を狭めてしまっている自分に気づかされた。
女の子のように、「転んじゃった」なんて表現はきっと私にはできない。言葉として知っていても、それを使うことはない。
「転んじゃった」ってなんて素敵な表現の仕方なんだろう。もう私は出せないその表現に、羨ましくなってしまった。
言葉を知らないというのは、とても尊いなあ、とそんなことを感じた。