ほんとうは、「楽しかった」とだけ言いたかった
日曜夜の楽しみだった、アニメ「鬼滅の刃 刀鍛冶の里編」が先週で終わりを迎えた。最後、鬼になってしまった禰豆子ちゃんが、鬼にとっての弱点である太陽の光を克服して、炭治郎と蜜璃と一緒に喜び合うシーンで涙腺が爆発した。
そこで、3人が一緒にこう言うのだ。
「よかったねえ」「よかったねえ」。
それを見ていて、涙がばたばたと零れたのはもちろん、「言いたいことって、ずっとこういうことだったのになあ」と思っていた。
小学生や中学生のときに、イベントや授業などで事あるごとに求められた感想シート。アンケートの最初のほうは、4段階ぐらいで「そう思う」「どちらかと言えばそう思う」「どちらかと言えばそう思わない」「そう思わない」で評価するんだよね。
進めていくと最後の最後で、感想パートがやってくる。
小学1年生のときには、「楽しかった」「嬉しかった」「面白かった」とか書いていてOKが出ていたのに、年齢を重ねるごとにそれでは許されなくなっていく。
” 何 ” が楽しかったのか。” どうして ” 嬉しかったのか。” どういったところが ” 面白かったのか。
そうやって細分化して考えて、感想を書いていたあの頃。
でも、そうやって細分化して、何が、どうして、どういったところが、に答え続けていると、本当に言いたかったリアルな気持ちからだんだんと離れていってしまっていた。
” 何 ” が楽しかったのかと言われれば、
・自分にはない視点だったから勉強になった、とか
・周りの人とのワークショップで、普段は見られない友達の一面を知れて驚いた、とか
・自分も同じように考えるから共感した、とか
そういうことを書いたとする。
でも、その感想って、勉強になった、驚いた、共感した、で「楽しかった」から少し遠ざかってしまっているような気がする。ただただ「楽しかった」と言いたいだけなのに、こねくり回したせいで「楽しかった」の原型がなくなってしまったような。
当然、「楽しかった」の中には、上にあげたような要素があることは間違いないのだけど、なんというか、「楽しかった」とシンプルに伝えることができなくなってしまったかもしれない、とも思う。
だから、鬼滅の刃の3人の「よかったねえ」を見て、きっといろんな「よかった」があったのだろうけど、それでも集まったときに出る言葉が「よかった」しかないことが、私にはとってもよかった。泣いた。
また次の、柱稽古編も楽しみや!
”終わりよければすべてよし” になれましたか?もし、そうだったら嬉しいなあ。あなたの1日を彩れたサポートは、私の1日を鮮やかにできるよう、大好きな本に使わせていただければと思います。