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たまには鈍感になってみたくなる
気遣いができる人はすてきだ。
「え! そんなところにも気づいてくれるの!?」をもらうと私はきゅんとするし、「○○さんもすごいけど、たなべさんもセッティングお疲れ様!」とか言われた日には、きゅんきゅんでお腹がいっぱいになる。
目の前の人だけじゃなくて、その先にいる人、その周りで関係していた人にも心が向けられるのは、才能の域だと思う。
簡単な言葉にすると「視野が広い人」なのだけれど視野が広いと、気遣いができるはイコールではない。視野が広くてそのことに気づいたとしても、気づくだけで言葉にしない人もいるからだ。
私は、視野が広くなくてもいいから気遣いができる人でありたい。
さいあく気づけなくてもいいから、いや、もちろん気づくようには目を向けるしアンテナを張るけれど、それ以上に、気遣いを言葉にして、心を声にできるようになりたい。
……と、気張ってみるけれど。
ときどき「鈍感になりたいなあ~」と情けなくも考えることがある。
なあんにも気づきたくない。アンテナをヘタリと閉店させて「今日はもうおしまいです。今日とは言わず、半永久的に閉店です」とか言っちゃいたい。
情けね~~!
情けね~~と思うけど、そんなふうに考える日も、まあ、ある。ふだんは気遣いをきちんと適量、あるいはちょっと過剰なぐらいでしたいと思っているけれど、ときによってはゼロにしたい。
そういえば今までの人生で何人か生物的に鈍感な人に会ったことがある。
「え、それ先輩がやると思ってました」と、いけしゃあしゃあと言ってのけた後輩。きっと彼は強く強く育つだろう。
「あ! 全然気づきませんでした!」と、にこにことドデカボイスで話していたあの子。きっと彼女は幸せに生きていけるだろう。
「それやっといたら楽でしたよね~」と、かたちだけ申し訳なさそうにしていたバイト先の人。きっと彼は大物になるだろう。
根本からそんなふうになれたら、世界はどんなふうに見えていたんだろうと考えてしまう。やっぱり、自分が中心で世界を回しているのかな。
それでも恐らく私は、気遣いができない私より気遣いができる私のほうが好きだと思う。結局今のままが一番だと思い直したりする。
明日もアンテナを開店させて、気づける私、気遣いができる私でいよう。
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