他人の目が怖い:SNSが「勝てない戦い」に感じる理由

他人からの評価への恐れは、私の人生に思っていた以上に深く影響を与えてきました。それは、私の行動を制限し、自分をさらけ出すことをためらわせ、本当にやりたいことを全面的に受け入れることを妨げてきました。

そして今、私がこの新しいフェーズに踏み出そうとするとき—自分の仕事、文章、コースをシェアしようとするとき—私はまた、かつての抵抗と戦っています。

身体は記憶している—たとえ心が忘れていても

この緊張は、頭の中だけのものではありません。身体にも現れています。 肩のこわばり、噛みしめた顎、胸が締めつけられるような感覚。明確な不安を感じているわけではないのに、身体が何かに備えて緊張しているのです。

これは**戦うか逃げるか(Fight or Flight)**の状態。物理的な攻撃は何も起こっていないのに、神経系はまるで今にも襲われるかのように反応しているのです。

どこから来ているのか?

今日、ヨガマットの上で気づきました。

「評価されることへの恐れ」

私はこれをずっと抱えて生きてきました。

「どう見られるか?」が怖い。
知らない人たちに誤解されることが怖い。
私のストーリーや人生を知らない人たちが、ただ表面的に私を判断することが怖い。

でも、それが現実です。

なぜなら、人は誰かを判断するものだから。

「どこにも属さない」感覚

SNSは、私にとっていつも居心地の悪い場所でした。それは、自分がどこにも完全に属していない感覚を増幅させるからです。

英語で投稿すれば、主な読者は北米圏。でも私は北米の文化に完全に馴染んでいるわけではない。
私はカナダ国籍だが、人生の半分以上を日本で過ごしてきた。もう「カナダ人」という感覚はない。でも、日本人にはなれない。
日本で高校に通ったわけでもなく、中学で育ったわけでもない。日本の集団アイデンティティを形成する大切な時期を経験していない。

では、私はどこに属するのか?

何をしても、私は**「十分ではない」**と感じる。

✔ 日本にとっては「西洋人すぎる」
✔ 北米にとっては「東洋的すぎる」
✔ 自由なスピリットには「構造的すぎる」
✔ 伝統的な男性像には「柔らかすぎる」

どこに行っても、何をしても、「完璧にフィットする場所」はない。

この**「どこにも完全に属せない感覚」**が、SNSを苦手にさせる一因なのかもしれません。

SNSの問題点

SNSが苦手な理由のひとつは、それが深さではなく「拡散力」によって動いているからです。

SNSは、刺激的なコンテンツが求められる場所。
人々はクリックしやすい情報を好み、複雑な議論や曖昧なテーマには興味を示さない。
「白か黒か」「賛成か反対か」—SNSは極端な意見を求める。

私は、じっくり考えさせられるような投稿をしたい。でも、SNSの仕組みは、それを求めていません。

だから、私は時々思います。

「本当に、ここにいる意味があるのか?」

「とにかくやれ」という文化への違和感

西洋文化には、「とにかくやれ」「考えるより行動しろ」というマインドセットがあります。

「ただやればいい。」
「トライではなく、やるかやらないか。」
「自分を押し通せ。」

これは、非常に「マスキュリン(男性的)」なアプローチです。しかし、それは私が自然に機能する方法ではありません。

日本の文化では、真逆の価値観が根付いています。

「調和を保つことが大切。」
「周囲に迷惑をかけないこと。」
「目立ちすぎないこと。」

私は25年間日本に住み、この価値観が自分のデフォルトになりました。

だからこそ、「とにかく自己主張しろ」というSNSの世界が苦手なのかもしれません。

私は、人々をクリックさせるために「煽る」ような投稿をしたくありません。

炎上させるために挑発したくない。
アルゴリズムのために「演じる」ことはしたくない。
ただ目立つために、大きな声で叫びたくない。

でも、同時に、人の目が怖い。

私が受け入れなければならない現実

結局のところ、私はひとつの真実を認める必要があります。

私は、人が私をどう見るかをコントロールできない。
私の言葉をどう解釈するか、私は決められない。
私の発信をどう受け取るか、それを決めるのは他人だ。

でも、私がコントロールできるのは、

それを恐れて止まるかどうか。

もし、「評価されることへの恐れ」に負けて沈黙を選ぶなら、それはすでに負けたも同然。

だから、私は続ける。

書き続ける。
発信し続ける。
この仕事を続ける。

それが簡単だからではなく、

それが怖くないからではなく、

「この仕事が、自分にとって価値のあるものだから。」

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