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母を看取るまでの時間(1/2)

危篤の知らせを受けて、私が無事に病院に到着したのが金曜日の夜9時ごろ。 母が息を引き取ったのが日曜日の正午過ぎ。 39時間、母は生き続けてくれていた。

私が海外で暮らすようになって20年以上、いつかこの日が来てしまうと頭の中でうっすらと思い続けていた。 

危篤の知らせを受ける

大慌てで飛行機のチケットをとる

ハラハラして泣きながら日本へ向かう

病院に着く、母はまだ頑張って命を落とさずにいてくれている

ワァワァと泣きながら「お母さん、ごめんね、ごめんね、親不孝な娘でごめんねーーーっ!」とご号泣する私

ずっとそうなるのだろうと思い続けていた事が本当にそのままそうなった。 私が思い続けていたからなのか、別にそれとは関係がないのかは不明。

痩せ細った母、友達のお母さんの誰よりも美しかった母の姿からは想像もできないようなヨレヨレの母。 いつも気高く、凛としていた母はそんな姿になっていても必死に呼吸を続け、意識が朦朧としているであろうに、凛と気高くベットに横たわっていた。 

私が病室に入って来たことが気配で気づいたのであろう、必死に目を開けようとするが瞼は開かない。 ちょっとあいても白目しか見えない。 もちろん、体のどの部分も動かすことなんてできない。

私はその晩ベッドの横に座って浮腫んだ母の手をさすり、足をさすり、ずれる酸素マスクを元に戻し、看護婦さんと一緒に母に寝返りを打たせ、おしめ替えのアシストをし、合間に耳元で囁き続けた。

「お母さん、大好き。 今まで本当にありがとう。 お母さんに教えてもらったことは必ず娘たちにも受け継がせて行くから。 私たちは大丈夫。 お母さんにたくさんのことを教わったから。 もう心配しないで。 お母さんのことは絶対に忘れないから。」

と泣きながら言い続けた。

でも、本当に言いたかったことは

「お願いだから死なないで! 私たちをおいていかないで!」

だった。

金曜日の夜は長かった。 でも、お母さんが生きて私のことを待っていてくれた事が本当に嬉しかった。

やっと空が白んで朝が来た。 

土曜日の母はすごかった。

お世話になった看護婦さんが部屋にはいると目を開けた。 白目じゃなかった。 ちゃんと黒目をぱちっとあけて焦点はあっていないのに目を開けて一生懸命、「あなたが来てくれた事、気がついています。 今まで本当にありがとうございました。」と言っているかのようだった。

いや、もしかしたら「まだ死にたくない、なんとかしてくれ!」だったのかもしれない。

特定の人がくると手の指が動いた。

私が質問をすると頷くように瞬きをしたりした。

私は踊りたくなるほどに嬉しかった。 病室はちょっとだけ活気付いた。 ずっと看病をしていた父も「これでもしかしたら回復して治って退院できるかもしれない!」と夢のようなことを言い始めた。

私は医療関係者ではないけれど、人がどんな風に死んでいくのか知識も何もないけれど、でもなんとなく直感でわかっていた。 「これもそう長くは続かない。」 もう、こんなに骨と皮だけの姿になってしまい、体の中は数々の薬という名の毒に焼き尽くされて出血しまくってボロボロになってしまった母の体が再生されるわけがない。 そう思うことしかできなかった私は、夢を見ているかのように「自分の妻は歩いて退院できるかもしれない。」と言い続ける父の心理状態が心配になった。

そして日が暮れて、土曜日の夜が来て、母の容態はゆっくりと下降していった。








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Mieko Horikoshi
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