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「私」ではなく、「キリスト」

たまに、ご自分の宣教や成果を盛んに披露されるクリスチャンの方がいます。

世界各地でこのようなミニストリーやっている、この集会にこんなに大勢の人が来た、等々。

その一方で、やたらと自分を卑下するクリスチャンの方もいます。

自分はとても罪深い、自分には愛がない、自分はクリスチャンをやっている資格がない、等々。

両者は、実は表裏一体なのではないかと思うのです。つまり、主体が「自分」、つまり「私」なのです。「キリスト」が主体となっていません。

主体が「私」であると、結局、優越感(「私」は凄い)、または劣等感(「私」はダメだ)の間を行ったり来たりするようになります。

このように書く「私」も今だに両者を行ったり来たりしています。。

しかし、自分はひとつの「器官」に過ぎず、主体は「キリスト」であり、頭は「キリスト」であるというところに留まれば、優越感か劣等感のどちらにも陥ることはなくなく、解放されます。なぜなら、「私」は、「キリスト」とともに死に、「キリスト」とともに生かされているわけですから。

なんと素晴らしいことでしょうか。ハレルヤ!

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の神子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2章20節)



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