#10. 発覚 【虹の彼方に】
彼女の体調が日に日に悪くなっていった。
タイミングが悪く、首にできた帯状疱疹の激痛によって、お腹の痛みはかき消されていた。
しかし夜になると高熱が出たり、妊婦さんのようにお腹が張ったりして、あきらかに異常だった。
それでも仕事を休まず、持ち前の根性でマッサージの仕事を続ける彼女が、ボクは心配でならなかった。
やがて1人のマッサージのお客さんの施術に対し、施術後は2〜3時間ぶっ倒れた状態で安静にしないと、次に動けないほどになってしまっていた。
もちろん一日に施術できる人数もかなり減っていった。
週末には恒例となっていた彼女が楽しみにしていた「緑貯金」も、車では行くけれど身体が辛すぎて、ほとんど自力で歩けなくなってしまっていた。
あれだけ大食いだった食欲もどんどん落ちている。
「やっぱりちゃんと病院行こう!」
ボクは満身創痍な様子の彼女にそう促し続けた。
「さすがにこれっておかしいよな。・・・うん、病院行ってみるわ。」
次の日に彼女は近所の胃腸科クリニックに予約を取った。
後日、血液検査の結果が出たらしく、仕事中だった彼女のスマホにクリニックからの着信が大量に入っていた。
仕事の合間に折り返して連絡を入れる。
どうやら血液検査の数値が特別異常だったようだ。
彼女はタイミングをみて、クリニックへ行った。
「この数値、うちでは手に負えないです。おそらく腫瘍があるのでしょう。」
そして大きな病院の紹介状を書いてもらった。
内心は怖かっただろうが、ボクの前では、
「なんか大きい病院に行けって言われたー。病院っていちいち大袈裟やねんよなー。また仕事休まなあかんやん。」
と、強がっていた。
最近の彼女の体調不良を目の当たりにしているだけに、ボクはとても心配だった。
病院に付き添って行こうかと何度も声をかけたが、彼女は一人で大丈夫だと言ってきかなかった。
その日、ボクは本業の仕事に行き、彼女は紹介してもらった大きな病院へ受診しに行った。
定時で仕事を終え、家に帰ると彼女は静かにソファーに座っていた。
その時間帯に彼女が珍しく家にいることや、ソファーに座りっぱなしの姿を見て、これはきっと尋常ではないのだということを直感した。
重めの空気を察して、
「病院どうだった?」
と、スーツを脱ぎながら、ボクはやんわりと尋ねた。
ひと呼吸置いてから、ポツリポツリと彼女は話し始めた。
「なんかなー・・・なんか即入院しろって言われたわー。せやけど・・・仕事あるからすぐ入院するのは無理やって言うたってん。」
強がっているが、あきらかに彼女の声のトーンがいつもと違っていた。
「ええっ、即入院?病名は何やったん?」
「・・・いつなら入院できる?ってしつこいからさー、とりあえず一週間後って言うといた。」
「お腹、大丈夫なん?」
「・・・なんか・・・大腸に腫瘍があるんやって・・・10cmっていうてた。」
「ええっ!!!腫瘍!?10cm!?」
「だから7月7日から入院することになってん・・・」
彼女の目に涙が溜まっていた。
「・・・せっかくの七夕・・・やのに・・・なぁ?」
言い終わる頃、彼女の頬を涙が伝った。
ボクはたまらない気持ちになって、彼女を優しく抱きしめた。
「きっと大丈夫!今の医療はスゴく発達してるんやから!絶対大丈夫・・・」
ボクはそんな何の根拠もない事を言うことで、彼女と、そして自分自身に、必死に言い聞かせるしかできなかった。
「なんか下剤入れて、腸の中空っぽにするっていうてた。下剤とか飲むのめっちゃ嫌やわー!」
「嫌がるのそこ?」
「うん、下剤だけどうにか回避でけへんかな?」
そんなやりとりで、彼女は気分を紛らわそうとしていたが、内心は明らかに動揺していたのが伝わった。
「・・・私、大丈夫やんな?」
「うん、大丈夫!オレが絶対守るし、絶対治してあげるから!」
「ありがとう・・・うれしい・・・」
互いに静かに涙を流しながら、ボクはしばらくソファーの上で彼女を抱きしめた。
まだ入籍して1年も経っていないというのに、せっかく生活も落ち着いてきてこれからだという時に、これはいったい何の仕打ちなのだと思った。
オレが「クズ人間」だったから?
だったらオレ自身に罰を与えろや!
本気でそう思った。
つい先日まで一緒に旅行を楽しんだり、美味しいもの食べに行ったばかりなのに、本当にこの状況が信じられなかった。
だが、彼女の尋常ではない体調の悪さと、その頬を伝う涙が、否応にも現実を受け入れざるを得ない強烈で嫌な説得力を持たせていた。
次の日、彼女は知り合いの美容室に行って、長かった髪をバッサリ切ってショートカットにした。
「もし抗がん剤治療で髪の毛抜けちゃったらでけへんからと思ってさ、前からやってみたかったヘアドネーションをやってみてん!」
「前からずっとやりたかったんやけど、フラやってたら髪を伸ばしとかないといけなかったからさ。でもこの機会に夢が叶ってよかった!」
「私のこの髪が誰かの役に立つといいな!」
ボクは彼女の行動力と決断力の早さ、そして前向きな発言に心から脱帽した。
しかもこんな状況で、まだ誰かの役に立とうとしている。
本当に自慢の素敵な奥さんだと思ったし、どんな事をしてでも絶対にボクが助けてあげるのだと心に誓った。
ショートカット姿の彼女も、とても似合っていた。
数日後、彼女の病状について、彼女の親友とボクを含めて3人で話をする機会があった。
たまたま親友の方が医療事務のバイトもされていたので、
「入院していきなり下剤入れて、即手術とかおかしくない?」
という彼女の話を聞いて、バイト先のクリニックの先生にすぐに相談してくれた。
そのクリニックの先生はとても優しく親切な方で、土曜日の夜の時間外にも関わらず妻の診察をしてくださった。
エコーで彼女のお腹を診ると、先生はボク達にわかりやすく絵を描いて説明してくれた。
「横行結腸に腫瘍があるね、見立ての通り10センチくらいかな。でも下剤で腸を綺麗にしてから切除する手術って言ってたの?それは私は反対だな。腫瘍が腸を塞いでいるのに下剤なんかで勢いよく流しちゃったら、たちまち腫瘍に詰まって腸閉塞になっちゃう可能性が高いよ。」
「えっ!そうなんですか?」
ボク達は驚いて顔を見合わせた。
「あと・・・CT撮ってみないとなんとも言えないけど、多分肝臓と・・・おそらく腹膜にも細かく転移してるんじゃないかな?」
「私の口からこういう事は絶対に言ってはいけないんだけど・・・」
その他の細かいやりとりは割愛するが、とにかくボク達はその先生のアドバイスにとても感謝した。
妻はまだ入院もしていなかったが、先日の先生の話を聞いて違うところへ転院することを決めていた。
週が明けて月曜日、彼女は最初の病院を断って、新しい病院に行く予約を入れた。
最初の病院に転院したい旨を伝えた途端、急に看護師の態度が冷たくなってとても心苦しかったと言っていた。
その頃の彼女は歩くのもやっとで、高熱を出しながらフラフラの状態だった。
そんな状態にも関わらず、ボクが制止するのも振り切って、入院する予定の二日前まで「以前から予約を入れてくださっていた大切なお客さまだから」と彼女は施術の仕事をやり通した。
入院の二日前、彼女とこんな会話をした。
「パッと手術してさ、パッと一週間くらいで退院できるかな?」
「いや、ちゃんと検査してもらわないとわからんけど、さすがに一週間で退院は無理ちゃう?」
「じゃあ一ヶ月くらい? さすがに一ヶ月も仕事を休んでなんかいられないわ。」
彼女は仕事とお客さんのことばかりを気にしていた。
そして入院予定の前日、ソワソワしながらもボクは本業の仕事で会社に出勤していた。
昼過ぎに彼女からLINEが入った。
『高熱出て朝からトイレにも立ててない、もう限界』
と、短い短文が入ってきた。
ボクはすぐに早退の許可をもらって、急いで家に帰った。
慌てて部屋に戻ると、朝ボクが家を出た状態のままの姿で横になっている彼女に駆け寄った。
「あいぽん、大丈夫か?」
「熱が・・・スゴくて・・・動かれへんわ・・・」
ボクにはどうすることもできなかった。
とりあえず彼女を抱えてトイレに連れて行った。
どうにか用は足せたが、身体中が激痛でこれ以上動くことは全くできそうになかった。
「救急車を呼ぼっか。」
彼女は小さく頷くのが精一杯だった。
ボクの頭の中はパニックだったが、できるだけ冷静になろうと必死で自分を抑えながら救急車を呼んだ。
しばらくするとサイレンの音が聞こえてきた。
「あいぽん、救急車来てくれたよ。」
彼女の身体をさすりながら、救急隊員の到着を待った。
3人の救急隊員が部屋に入って来てくださった。
ワンキチはこの異様な状況を察して、かなり驚いて怯えていた。
ボクは怖がるワンキチを優しく抱っこして「大丈夫・・・大丈夫・・・」と小声でなだめた。
そして状況を救急隊員に説明した。
しばらく症状を診たあと、妻が担架に乗せられてそのまま部屋を出た。
マンションの外には近所の人達がざわざわと出てきていた。
そんな周囲の人達に、ボクは軽く会釈して妻に付き添って救急車に乗り込んだ。
ちょうどそのタイミングで、彼女の友達が食欲の無かった彼女のためにスムージーを作って持ってきてくれていた。
ボクはそれを受け取り、その友達も察してくれて
「絶対大丈夫!気をしっかり持ってね!」
と、声をかけてくださった。
救急車で病院に搬送され、HCUという病棟に運ばれた。
緊急入院ということで彼女が処置されている間、ボクは病院のいろんな書類にサインをしたりしながら、お義母さんに電話をかけて現状を伝えた。
「私もすぐに行きます!」
小一時間ほどでお義母さんがやってきたが、新型コロナウイルスの影響で一人しか付き添えないという。
ボクはどうにか病院に食い下がったが、どうしてもダメだった。
後にこの新型コロナウイルスのせいで、ボク達は様々な影響と規制を受けることになる。
せっかく来てくださったのだが「また状況教えて」と言って、お義母さんはとんぼ返りで帰らされてしまった。
ほどなくして処置が終わったようで、ボクは彼女の元に呼ばれた。
彼女は点滴の管に繋がれながらも、すっかり元気になって笑顔を見せてくれた。
「ゴメンね、迷惑かけて。」
「そんなん気にしなくていいから、それよりちょっと落ち着いた?」
「うん、なんかめっちゃ元気になってきた。」
そういってピースサインをしていた。
「それは薬のおかげやと思うから、絶対に油断したらあかんで。」
HCUは高度治療室のことだったが、部屋割りがあるわけではなく、フロア全体がカーテンでベッドを仕切られているような感じだった。
方々で何かを知らせるアラームが鳴っていて、その都度看護師さんがバタバタと移動していて忙しそうだった。
彼女に言わせれば、
「こんな廊下みたいなところで過ごすの嫌や!」
と、散々駄々をこねていたが、どうにかなだめた。
これから入院になるので、ボクは着替えやこれからの彼女に必要なもの取るために一旦家に帰った。
その移動の道中に会社に電話して、こういう状況なのでしばらく出社できないから仕事を休ませてほしい旨を告げた。
家に帰るとママが運ばれたことがストレスだったのか、ワンキチは家中に下痢気味のウンチを撒き散らしていた。
普段のワンキチなら絶対にしない行動だった。
すぐに掃除しながら、可哀想になってワンキチを抱きしめながら少し泣いた。
ワンキチはとても利口な子なので、少し落ち込んでいたが、ちゃんと説明をすれば理解をしてくれた。
人の話す言葉をある程度わかっているのだ。
部屋の掃除を済ませてワンキチを落ち着かせてから、タオルや着替え、歯磨きセットや食器類、スマホや充電器、彼女の仕事関係の手帳などなど、必要なものをカバンに詰め、再び病院に向かった。
自転車を漕ぎながら、ボクはこれからの事を考えた。
どうすればいいんだろう?
どうすれば病気は治るんだろう?
どうすれば・・・
どうすれば・・・
そのフレーズばかりが頭の中をぐるぐると巡るだけで、他に何も出てこなかった自分に腹が立った。
再び病院に着いて、着替えや日用品を備え付けの棚に入れた。
「ありがとう。もう大丈夫やで。」
「うん、他にいるものとか欲しいものあったら何でも言うてな。」
「ワンキチは大丈夫やった?」
「めっちゃ下痢してたわ。救急隊の人来たし、ママ運ばれて行ったからビックリしたんやろうな。」
「そっかー、悪い事したな。いっぱい優しくしてあげてな。」
「うん、わかった。」
「私・・・またすぐワンキチと会えるやんな?」
「当たり前やん。」
そんなやりとりをしながら、面会時間が過ぎたので病院を後にした。
翌日、主治医の先生から今後の治療方針の話があると言うので、病院に向かった。
彼女はHCUから一般病棟に移っていた。
ボクと彼女は面談室のような部屋に通され、主治医の先生と数名の看護師さんを交えて今後の治療方針の話しが始まった。
まず最初に横行結腸癌のステージ4だと聞かされた。
大腸に10センチほどの腫瘍があるのだが、問題は転位している肝臓の方がヤバいらしかった。
肝臓に4.5センチの腫瘍が転位しているのだが、こちらの処置を急がないと生命に関わるとのことだった。
ここまで大きくなり、ステージが進行していると外科的手術はできないらしい。
科学的治療、つまり抗ガン剤治療をすぐにでもやりたいのだが、今のままでは身体が衰弱し過ぎている。
現状では抗ガン剤に耐えうる身体ではないから、抗ガン剤治療もできないのだという。
しかも横行結腸の大きな腫瘍が腸壁を塞いでしまっているので、食事ができない状態だから体力を付けることもできないのだという。
そこで病院が提案してくれた治療法はストーマ(人工肛門)を設置して、まずは食事ができる身体にすること。
そして食事によって体力が回復したら、抗がん剤治療を開始するといった内容だった。
ボク達が勝手に思い描いていた治療と、あまりにもかけ離れている現実にかなり戸惑った。
彼女はストーマ(人工肛門)設置にかなり抵抗があったので、その治療方針は絶対に嫌だと拒否し、それならまた違う病院に転院するとまで言って、少し取り乱した。
しかし病院側は、彼女の身体はそのような悠長な事を言っている場合ではないこと、今は一刻を争う状態なのだと彼女を諭した。
そして提示していただいた現状のプランでも、ギリギリ間に合うかどうかの瀬戸際であると・・・
それくらい逼迫している認識を持ってほしいと、かなり強く言われてしまった・・・
この時点でボク達に選択肢は、もうそれほど残されてはいなかった。