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最終講義3 私のIPE

ルイス・モデルから、リストラクチャリング(産業の国際的・地理的再編成)について、研究を集めました。そして、債務危機、構造調整、改革の政治経済学も。
IMFと「ワシントン・コンセンサス」の問題。
危機ではなく、調整政策・調整過程のロジックを学ぶ。国際通貨制度改革論、為替レート、国際収支不均衡の調整問題に、私は関心を持ち続けました。

1999-2000年、在外研究で、UCSBとリーズ大学に籍を置き、アメリカとイギリスに暮らしました。しかし、英語で考え、議論することは、まったく上達しませんでした。申しわけない、と思いました。
でも、じっとしているのは、もったいない⁉
そう思って、アメリカ、イギリス、ヨーロッパ、アジアの多くの研究者にメールで打診し、アジア通貨危機の本質と解決策を質問して回りました。

インタビューの後、ジュネーブの駅でレコーダーを出したときのことを、今も忘れません。
とても親切に、詳しく答えてくれたウィプロシュ Charles Wyplosz の話を聴き直そうとして、息が止まりました。
なにも聴こえない。録音できていない? レコーダーのボタンを押しそこねたのか!
黙って、立ち尽くしました。そして、簡単なメモだけ殴り書きしたルーズリーフをあわてて引っ張り出し、駅のベンチで記憶を頼りに彼の話の要点と説明をノートしたのです。

その後も、研究者たちの話を聴き続けましたが、私はそれらをまとめませんでした。問題はあまりにも広大で、私の理解が及ばないことを痛感しました。理論においても、制度についても。
2000年5月、せめて英語圏でアイデアが激しく闘うさまを伝えよう、と思い、「今週のReview」を書き始めました。

私は、危機の(経済)思想に関心がありました。同時に、その(政治・社会)風土?に興味を持ちました。
大学が許してくれた研究費を使って、何度か調査旅行を試みました。
私が最初に訪れたのは、ソ連邦解体後の中央アジアとロシアです。商学部の門脇先生が誘ってくださいました。
モスクワでは、軍用?の巨大な銃をかかえた警備員たちがフロアに立つ(そして、最上階のカジノ直通エレベーターの前には、透けた衣装をまとう美女が立つ)ホテルに泊まりました。

ゼミの留学生が誘ってくれた中国に行きました。
通貨危機については、韓国、台湾、タイ、シンガポール、ドイツ、フランス、スイス、イタリア、アルゼンチン、アイスランド(世界金融危機で最初に政権が崩壊し、世界最大?の露天風呂があります)に行きました。
ヨーロッパ移民政策について、また、イギリス、ヨークシャー北部の「人種」暴動についても、インタビューを試みました。
研究者になったゼミ生が調査のために住み込んでいたインド、ムンバイのスラム(ダラビ)に行きました。ムンバイの鉄道に乗るのは、ちょっと大変です。

国際通貨制度の改革は、グローバルな構造変化とその軋轢がもたらす、社会・政治紛争の民主的統治に必要な、パーツであり、「正解」だと私は考えます。
私が尊敬したのは、C. P. キンドルバーガーであり、R. N. クーパーと
J. ウィリアソンでした。
ユーロ圏や、通貨と政治に関する J. A. フリーデン、B. アイケングリーンの研究も集めました。

ウィリアムソン、クーパーの国際通貨制度改革論

2010年のある晩、私は背中に激痛を感じて飛び起きました。これはとんでもない。病気だ、と確信しましたが、朝までに痛みは消えてしまいます。
毎晩、数時間しか眠れず、何度も医院で診てもらって、とうとうCT画像を見た医師が、わかった、と言いました。後縦靭帯骨化症(OPLL)でした。

専門医を紹介され、その後、全身麻酔で頸椎を切る手術を受けました。靭帯の患部を切除するには頸椎を2つ切断する必要があったのです。
1週間、天井を見るだけ。その後、ベッドの角度が少しずつ上がり、歩行機にすがって歩く練習をしました。病院のフロアの端から端まで。そして、階段の昇り降り。敷地の周囲を歩きました。

退院後も首にギブスを付けた生活を3か月送り、おそるおそる電車に乗って講義に行きました。
ある日、偶然、書店で金哲彦の『3か月でフルマラソン』を見つけたのです。これはいいな!と購入しました。練習のメニューをなんとかこなして、ハーフマラソンに参加したのは2013年でした。
大阪・長居公園でフルマラソンを2回完走しました。
2017年、LAマラソンは、今、大谷翔平で沸くドジャーズ・スタジアムから、大火災の一部となっているサンタモニカの桟橋まで、末っ子と一緒に走りました。日付変更線を誤解して、あやうく大学の卒業式に遅れるところでした。
LAでは、グリフィス天文台や街の古本屋 The Last Bookstore にも息子と行ったのが楽しい思い出です。

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