「オムツからの卒業」で親心の振り子をグウィングウィン揺さぶられる
ウチの娘は3歳半をすぎて、まだオムツがとれません。オムツを卒業することより、トイレの習慣がつくことの方が大切。自分でトイレができるから、オムツがいらなくなるわけだし… わかっちゃいるけど、そこには親の都合ってモノもある。
自分がシッカリある子
週の初めは、いつも荒れ模様。「嵐の月曜日」と呼んでいます。幼稚園へ出発する前に大騒ぎがありました。
母:「すみっこぐらしのパンツ、かわいいよ!」
娘:「ヤダノ!布パンツ、イヤダ!」
母:「今日は布のパンツにしようよ!幼稚園の先生、きっとよろこぶと思うよ。」
娘:「ヤダノ!お姉さんパンツがいいの!」
オムツのパッケージには、かわいいお姉さんがニッコリと笑っています。この銘柄でないと、はいてくれないんです。あの手この手で、布パンツをはいてもらおうとしますが、その手に乗ってはくれません。
ひきつけを起こしたように、ギャンギャン泣き叫びます。パニックで、ことばが通じません。もうこうなってしまったらおしまい。幼稚園にすら行けなくなる。さすがに折れました。
何カ月ごろ歩きはじめて、何歳ごろオムツがとれて、何歳ごろ離乳して… だいたいの目安はあるのでしょうが、そこは人生いろいろ。手のかかる子がいれば、まったく手のかからない子もいます。どうやらウチの子は、かなり「てこずるタイプ」です。
特徴は、ハッキリとした「自分」があること。これは着るけど、それは着ない。これは食べるけど、それは食べない。スキ・キライの基準は、自分のセンスに合うか・合わないか。せっかく準備したものが無駄になってしまうので、親としてはたいへん困ります。
「子供のため」と「親の都合」
せっかく買ってきたんだから着てよ… せっかく作ったんだから食べてよ… のどまで出かかって、グッとこらえます。それは親の都合ってもんだろ… 自分だって子供の頃、食べたくないのに無理やり食べさせられて、つらい思いをしただろ…
オムツからの卒業は、もちろん、子供のためを思ってのこと。長い目で見れば、いつかは止めなくてはなりません。幼稚園のプールの時間だって、オムツがとれれば参加できるんだし… トイレもできるようになったから、そろそろいいんじゃない?
でも、それって今日じゃないといけないんだろうか?本日晴れて、オムツ卒業式を執り行うことのご都合主義。イヤがっている子からオムツをとりあげる。そこに「子供のため」はあるのか?それが本当に「子供のため」になるのか?
揺れる親心を知ってか知らずか、娘はこんなことを訊いてきます。
「布パンツはいたら、お父さんうれしい?」
お父さんがうれしいなら、はいてあげてもいいよ… ってことです。
揺れる親心の振り子はマックス状態… 親は子供のためを思ってオムツを卒業してもらう。子供は親の顔色をうかがってオムツを卒業する。オムツからの卒業って、いったい誰のためなんだろう…
考えてみれば、どんなことにも「子供のため」と「親の都合」は混在します。そもそも幼稚園に行くことだって、娘は初め、嫌がったんです。でも、いつまでもお母さんと一緒じゃ、子供のためにならない。泣きじゃくる娘を先生に預けて、その場を立ち去りました。
でも、その一方で、子供が幼稚園に行っている間の数時間が、親にとってどれだけ大切なことか… 鬼のいぬ間に洗濯。子供のいぬ間の貴重な休息…
「子供のため」と言いながら、実のところは「親の都合」でもあることの罪悪感。そんなとき、苦しまぎれで、ある日本語を思い浮かべます。
割り切る(わりきる)
1.割り算で、端数を出さずに割る。
2.他人がどう思おうが気にせず、一つの原則に従って、ものごとの結論をきっぱりと出す。雑多な状況や己の心情などを排除して、単純明快に結論する。例:「これも仕事と割り切る」
3.些事(さじ)に拘(こだわ)らずにやる。例:「割り切って考えなさい」
参考 2020くろご式ことわざ辞典
この世には、あたかも無理数のように、きれいに割り切れない複雑な状況や心情があります。そして、誰だって生きていれば、そもそも割り切れない状況や心情を割り切って、前進しなければならないときがある… Speaking words of wisdom, let it be…
罪悪感の正体
実は、こうした「割り切れない」を考える哲学があります。「incommensurability issue(通約不可能性の議論)」といいます。
「通約不可能性」という概念の起源は、古代ギリシアのピュタゴラス学派による無理数の発見にまでさかのぼります。正方形の一辺を1とすると、その対角線はどうしても2の平方根(無理数)になります。つまり、正方形の一辺とその対角線とは、両者をぴったり測定できる尺度がなく、まさに「割り切れない関係」にあるんです。
何かと何かを比較対照して、その価値の優劣を判断しようとするとき、はたしてそれにふさわしい尺度が手に入るか・入らないか。平たく言えば、それが通約不可能性の議論です。
「子供のため」と「親の都合」を測定するモノサシって何だろう?たとえば「費用」対「効果」分析なんてどうでしょうか…
オムツからの卒業にかかる「費用(この場合は犠牲)」と言えば…
四六時中、娘のオシッコを気にしていなければならないストレス≒親の都合
娘が気にいる布パンツを見つけてこなければならないストレス≒親の都合
毎朝、何をはくかでオオモメするストレス≒親子の都合
なじみのオムツを奪われるストレス≒子供の都合?
オムツからの卒業で得られる「効果」と言えば…
娘の成長=子供のため
バカにならない日々のオムツ代が浮く≒親の都合
「子供のため」と言いながら、実のところは「親の都合」でもある。その罪悪感の正体がこれでわかります。それは、「子供のため」と「親の都合」を天秤にかけることのうしろめたさ。子育てを「費用」対「効果」分析すること自体のうしろめたさです。
どんな犠牲を払ってでも、助けてあげたいのが我が子の成長。なのに、そのために被るストレスは釣り合ってるか、とか… おかげでオムツ代はどれだけ浮くか、とか…
同じようなケースは、他にもたくさんあります。
A. 家族や友人を裏切る見返りに、お金をつまれる場合
B. 飛行場や高速道路を建設するため、お金と引き換えに自分が生まれ育った土地や家屋から立ち退きを迫られる場合
C. 地域産業の活性化のために、山・川・森・干潟・湿原といった自然環境をあきらめさせられる場合
こうした場合に考えるべきは、「家族・友人・故郷・自然環境って、おいくら?」ではなく、「それらを,お金と同じ天秤にかけてもいいのか」です。
「費用」対「効果」分析しないからこそ、家族は家族だし、友人は友人だし、故郷は故郷だし、自然は自然なんです。それをしてしまったら、友人や家族は「交換条件」だし、故郷や自然は「不動産」にすぎません。
「割り切れない」よりも、まず「割に合わない」
子育ては、どんなことにも「子供のため」と「親の都合」が混在します。きれいに割り切れないからこそ、割り切らなくてはならないときもある…
でも、それ以前に、もともと子育てとは「割に合わない」こと。それは営利目的ではありません。ましてや、スキで子供をもうけたんです。イヤならもうけなくたってよかったはず。娘とのトラブル続きで、それを忘れていました。
「お金モード」ばかりの世の中ですから、「お金じゃないモード」にも取り組んでいることを忘れがちになります。効率にばかり躍起にならず、気長に待つことの大切さ。そんなことを子育てから学んでいるのかもしれません。