もはやマスクは単なる布切れ+ゴムひもではない!
かつてはそれほどマスクを意識しませんでした。している人を見かけても、「風邪が流行っているのかな」とか「花粉症の季節だなぁ」とか、その程度だったですよね。ところが最近、マスクの有無やかけ方がやたらと気になりませんか?なんだか、すれ違う人に見られているような気がする… それってディスコースです。クラスターが、社会的な空気にも発生するようなものです。
「空気」ってことばがあります。
くうき【空気】
①地球上の大部分の生物がそれを吸って生きている気体。無色・無臭・透明で、地球全体をおおい包む。「――や水のようにしか受け止めぬ:液体――・圧縮――」
②その場の人たちに共通してみられる、志向のありかた。「歩み寄りの――が生まれる・分離独立の――が高まる・保守的な――が強い・譲歩する――がかもし出される」 三省堂 新明解国語辞典 第4版
「自然の空気」と「社会の空気」
ことばの成り立ちからすれば、おそらく、①がオリジナルで、②はメタファー(比喩表現・たとえ)です。あたかも、私たちが日々、すって・はいてを繰り返している「空気」のようなものが、社会にも存在する、ってことなのでしょう。「自然の空気」と「社会の空気」。こんなところに共通点があります。
1.目に見えないし、臭いもしないけれど、存在する。あるのかないのかハッキリしないけれども、ある。わかる人はわかるし、わからない人はわからない。
2.その場に、あたりまえのように、しかも有り余るほどある。私たちはそれを、それほど意識せず体内に出し入れする。はじめは違和感があるかもしれないけれど、次第に同化して慣れてしまう。
3.その場にいる人たちが、共有する。ある時、ある種の「空気」がその場に蔓延して、その場にいる人たちを支配する。でも、しばらくしたら消えてなくなってしまう。
ウイルスは目に見えないし、臭いもしない。でも、もしかしたら、空気中に浮遊しているかもしれない。無意識に呼吸していて、「飛沫感染」や「空気感染」するおそれがある。マスクの効果については賛否両論だけど、「自然の空気」を媒介した感染には注意しなきゃ… なんて思っていたら、こんなことを耳にしました。
マスクには自分が感染しないための効果よりも、周囲の人たちに感染させないための効果があるんですよ…
エーッ? っていうことは、マスクは自分のためにしているんじゃなくて、他人のためにしているのか。だとしたら、しっかりマスクしてないと、配慮に欠けたダメ人間ってことになる。忘れずにマスクするのは、むしろ「社会の空気」を気にしてのことなのか…
マスクの着用をめぐってトラブルが相次いでいます。皮肉にも、ウイルス感染対策のマスクが、「社会的な空気」の発生源のようです。ギスギスやイライラの感染が拡大していく。職場における被害者は、家庭で加害者になってしまったり…
マスクの記号的な意味
マスクはディスコースである。それってどういうことでしょうか?ディスコースの定義にはいろいろあります。例えば…
Discourse is semiotic elements of social practices.
(ディスコースとは、社会的な行為における記号的な要素のこと)
「記号」というと、交通標識やピクトグラムのような、一定の意味を持った図柄を思い浮かべますが、ここではより広い意味で「何かが何かを意味する作用」と捉えます。
とすれば、表情・態度・ふるまいのような、ことば以外のコミュニケーションもディスコースです。視覚的・聴覚的なイメージもそうで、ある種の社会的な空気の発生源となります。
じゃぁ、マスクって、どんな記号的な意味をもつのでしょうか?
スペインの首都マドリッドでは、マスクの着用義務化に抗議するデモがありました。参加者の主義主張はさまざまです。スローガンには「自由!」もあれば「反政府!」「アンチ・メディア!」もある。でも、いずれにしても、「マスクをしない」っていうことが、明確な政治的意味を持つことがあります。
大統領選の真っただ中にあるアメリカでは、民主党バイデン支持者≒マスク派、共和党トランプ支持者≒アンチ・マスク派、という構図があるそうです。マスクの着用に積極的か?消極的か?それが政治的なスタンスとして捉えられるからです。
香港では、今年の1月頃まで、マスク=反政府運動という公式が成り立っていました。よって政府は「覆面禁止法」を施行し、デモ参加者のマスク着用を禁止しました。しかし新型ウイルスの感染が拡大すると、政府は態度を一変。すべての市民にマスクの着用を呼びかけました。マスクの記号的な意味がこれほど変わったところはありません。
世界中どこでも、もはやマスクは単なる布切れ+ゴムひもではありません。マスクをかけることが何らかの意味を持つ。ただ単に素顔でいることが「ノーマスク」と捉えられてしまう。
「見せるマスク」と「隠すマスク」
ユング派の心理学でマスクと言えば、「ペルソナ(仮面)」を連想します。もとは古典劇において役者の用いた仮面のことですが、それが転じて「オモテ向きの自分」、悪く言えば「外面(そとづら)」を意味します。
個人が社会のさまざまな条件に適応して生きていくためには、外側の世界に向けて見せるべき「仮面」が必要になります。先生ならば先生らしく、父親ならば父親らしくふるまうことが期待されるわけです。
でも、「オモテ向きの自分」がいれば、「内向きの自分」もいる。それは、あまり他人に見せたくない自分。本当はいるんだけど、いるって認めたくない自分。生きられていない自分。例えば、オモテ向き論理的な人は、感情的な自分を隠していたリ… オモテ向き計画的な人は、行き当たりばったりな自分を隠していたリ… 「シャドー(影)」と呼ばれます。
もし「なんちゃってマスク」にイラっときたら、そこに自分が映っているのかもしれない。それが「いいかげんさ」なら、いるって認めたくない「いいかげんな自分」を投影しているのかも… それが「してるふりしやがって…」なら、人に見られたくない「ふりしている自分」を映しているのかも…
おしまいに、社会的な空気の感染対策です。「こうすればもう大丈夫!」なんていい話ではないけれど、でも、ディスコース読解力にその効果が期待できないだろうか… それは、メディア・リテラシー(メディアの読み書き能力)でもあります。
1.まず「社会の空気」に身体(カラダ)が反応して、気づく。「あれ!なんか匂わない?」っていう感覚。
2.空気の発生源である「ディスコース」を突き止めて、その記号的な意味を読み取る。それにはある程度の経験が必要…
3.真に受けない。カッコでくくる。相対化する。ある種の社会的な空気に違和感を感じるとき、その一端は自分が担っていることを忘れない。
参考 河合隼雄著(1977)『無意識の構造』中公新書