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5年間働いた助産師を辞めるまで#10
私は上京して病院で助産師として働き始めました。
夢であった助産師になれて、ちゃんと社会人になれたことが嬉しく、働くことに意気込んでいました。
私が働いていた病院は総合周産期医療センターという、地域の中でも大きな病院でした。入職したからにはしっかりと学びながら経験を積んでいこうと思っていました。
最高の同期10人にも恵まれ、助け合いながら働きました。色々な先輩がいましたが、しっかりと厳しく教えてくれる先輩にも巡り会えたので、先輩の経験と知識を少しでも取り入れようと必死で働きました。二交代制の勤務であったため、月に4~5回の夜勤をしていました。
その病院では部署のローテーションがあって、私は妊娠期、分娩期、産褥期、GCUといった部署を全て回りました。
4年目には新人教育を行ったり、5年目には看護研究の発表を行ったりもしました。
コロナ禍では私たちの病院もしっかりとした感染対策がされました。
一人がコロナに感染してしまうと、まだ免疫のない新生児たちとお母さんたちにも迷惑をかけてしまうため、絶対に罹患するわけにはいかないと常に緊張状態でした。
家と病院の行き来であり、家に帰ったらすぐにシャワーを浴びて、洗濯をする徹底的な対策をして、幾つもの感染の波を超えました。
しかし私は、3年目後半から始まった新人教育をするあたりから悩み始めました。
自分中にある知識や経験が少ししかないのに、新人教育をしなければいけない、私はこれでちゃんと教えられているのだろうか、と悩みました。
私はもっと経験を積みたいのに、教えることに時間を取られていくことにもどかしさも感じました。
しかし、人に教えることは自分の知識や経験を客観的に見ることができて、自分自身を成長させることができました。どう伝えたら伝わるのだろうかを自分なりに考えて、同期と相談し合いながら一人一人の新人助産師と向き合いました。
教育係を任されながら、病棟のリーダーもすることも増えてきました。
リーダーをするということ病棟は全体を同時に見て、指示をすることも必要です。どうやって病棟を守るべきか常に考え続けて働きました。
そうしていくうちにどんどん、自分のことを犠牲するようになりました。自分のキャパシティを越える責任の大きさがありました。
自分のつらい、無理だという感情を無視して、「大丈夫大丈夫」と言い聞かせていました。
仕事をするということは人のために働くことは当たり前なのですが、仕事に行くだけでどんどん心がすり減っていくのを感じました。
赤ちゃんのため、お母さんたちのため、病棟のため、新人教育のため、と周りのためだけを考えていました。
私は私のことをあまり考える余裕がなかったのです。
自分がまず満たされた状態でないと、本当の意味で人のために何かをするということはできないのに、自分で自分の満たし方、自分を本当の意味で労わってあげる自分だけの時間を作ることが下手でした。
コロナ禍でストレスもピークになり、私はこのまま働き続けていたら自分がカラカラに干からびてしまうと思い、仕事を辞める決断をしました。
私の病院は一年前に希望進捗調査を取られるので、そのタイミングで退職の希望を出しました。
それまでは辞めるかどうかをあれこれと悩んでいたのですが、実際に辞めると決めて希望を出してからはとても肩の荷が降りて楽になりました。
あと一年しっかり働いて辞めよう、少し休んだ後に転職しよう、と考えていました。
そんな中、付き合っていた彼氏からプロポーズを受けました。私は結婚するならこの人がいいと思っていたので、とても嬉しかったです。
コロナ禍の時に自主的に会うのを控えていた時も、手紙を書いて届けてくれました。
結婚するとなってから、それぞれの両親へ挨拶して、入籍日を決めて、結婚式を挙げたかったので結婚式の下見をして日程を決めました。ここまで怒涛の日々でした。
そして無事に入籍日を迎えた翌月、夫から上海赴任が決まった報告を受けました。以前から海外に行きたいと言っていたことは知っていました。
私もその夢を応援していたので、家族となったからには一緒についていくことを決めました。
そして私は仕事場である病院に、結婚と海外赴任の報告をしました。
当初はただの希望退職だったのが、いつの間にか結婚して海外に行くために仕事を辞めるという半分寿退社のような扱いになりました。
そして私は夏のボーナスまで働き切り、退職をしました。
私なりに入職して5年3ヶ月間、全力で助産師として働き切った経験は今の私の糧になっています。