沙翁とは誰のことかと
語学熱というのは、国際的にも、歴史的にも、日本のお国柄になっているようで、遣隋使の頃から先進国の知識を吸収しようという旺盛な好奇心が働いて、それはもちろん、後進国である劣等感の裏返しになるのだけれども、一時期、表向きは鎖国をしている間でさえも、幕府はしっかりとオランダを通じて海外事情を仕入れることに余念無く、アメリカの黒船艦隊が向かっていることも、予め察知していたというのだから、浦賀沖に現れて腰を抜かしたというのは芝居である。もっとも、そんな昔話を持ち出すまでもなく、今、外国語、ここでは便宜的に英語に限るけれども、その習得の目的の主眼は「会話」にあって、ビジネスに必要だとか、旅行で役に立つとか、個々の事情はあるにせよ、だからと言って、右向け右で、学校教育の現場まで「会話」偏重に陥って、「読解」が疎かにされているというのは頂けない。考えてみれば判ることで、そのビジネスにしても、四六時中、外国人と議論をしたり、メールのやりとりをしている訳ではなくて、仮にそうであっても、一部の商社だとか、外資系の企業に限られる話で、此の国の九十九パーセントを占めている中小企業が、のべつ外国語で話しているとは思われない。また、旅行にしたところで、一体、年間何日を英語圏で過ごすつもりなのか、その一週間だか十日の為に、大金を払って英会話教室に通い、電車の中でぶつぶつ例文を唱えているなど、費用対効果を考えるまでもなく、割に合わない努力、すなわち、徒労と言っては酷に過ぎるだろうか。
もちろん、受験でスピーキングとヒアリングが問われるから、という特殊な事情はさておき、外国語を、学んだ分だけ実りのある、成果重視の営為で考えるならば、読解力の上達にこそ学び手は専心すべきで、仮に一生の財産として語学力を捉えるのなら、ビジネス用途の味気ない契約書であるとか、事務連絡のメール文などではなくて、読み手を愉しませることを目的に、一流の書き手が工夫を凝らして執筆した文学作品を対象とすべきで、今や高等学校はもちろん、大学の教養課程においてさえ、文学は古臭い過去の遺物くらいに認識されて、数多の名著名作が、肩身の狭い想いをしているというのは、至って寂しい限りである。試みに、「沙翁」の名前を挙げたところで、ともすれば英文科の学生の中にも、「沙翁って誰?」などと言い出す向きがいるかも知れなくて、確かに古い呼び方ではあるけれども、今なお字引の付録には、聖書と並んで、その作品が載るほどの大家シェイクスピアが、左様な認知度しかないという寒々しい現状も、文学不人気の実相をよく表している。
それでも、文学鑑賞の悦びを知る篤志に言わせれば、シェイクスピアに勝る読み物は無い、というのが揺るぎ無い評価で、確かに、十六世紀末以来、四百年近く、英国だけでなく、世界中の読者を魅了し続けている実績は、他の作家の比ではなくて、経験上、そのシェイクスピアを読み始めた動機の一つが、実は筋書きの妙ではなく、彼の言葉選びの面白さ、言葉並べの美しさの秘密を知りたいという純粋な気持ちからだった。だから、これは前にも書いたことだけれど、シェイクスピアに限らず、外国文学というものは、翻訳を読んでも原作を読んだことにはならなくて、翻訳の言葉は、原著者の言葉ではなく、翻訳者の言葉であって、そこから原作の魅力、あらすじではなく、原著者が選び抜いた言葉の響き、並びを、味わったことには全くならない。よく、シェイクスピア(の原文)は難しいという話を聞くけれど、それは文学が古臭いという印象と同じように、読んだことの無い向きが言う先入観の最たるもので、大意を掴む為の訳本と、中辞典クラスの字引、そしてこれが一番大切な「根気」さえあれば、ちっとも難しいことなどなくて、英語から最も縁遠い、東洋の島国に住む我々であっても、十分に愉しむことが出来るエンターテイメントと言えるだろう。
シェイクスピア(だけでなく文学全般)を読む上で、何よりも気を付けなければならないのは、二人称単数代名詞であるとか、弱強五歩格であるとか、そういう後付けの理屈は一旦忘れて、真っ新な気持ちで原文を眺め、声に出して音の響きを味わってみることで、とりわけシェイクスピアなどは、元々が戯曲の台本として書かれたものなのだから、いわゆる文法用語で言う「破格」のような、規則に当て嵌まらない規則、倒置や省略といった変則的な言葉の使い方に満ちていて、一々文法など考えていたら、前に進まないどころか、そもそもが文法の枠に収まらない、答えの無い問いで悩むような不毛である。だから、繰り返しになるけれども、文学作品を愉しむ為には、ルールよりもリズムを優先することで、文法や形式論を意識した途端に、それは文学ではなく語学になる。それから、もう一つ言っておかなければならないのは、字引を丹念に調べてみることで、とりわけ古い英語で書かれた作品には必要な心構えになって、仮にごく初歩的な実例を挙げるとするなら、『ヘンリー六世』第一部の冒頭、ベッドフォード公爵の台詞「Hung be the heavens with black,」にある始まりの「Hung(Hang)」などは、一般に使われている「吊るす」の意味を当て嵌めたところで文意は成り立たず、中辞典以上の字引をよくよく読めば、きっと「覆う」の意味も載せているはずで、書き出しの文意は「天よ漆黒に覆われよ」(拙訳)ほどの意味になる。それは後段の「yield day to night !」の「yield」も同じことで、誰でも知っている「生む」では通じず、その「生む」からは思い付かない「譲る」の語義まで知って、初めて「陽は闇に座を譲るべし!」(拙訳)の文意が取れることになる。もちろん、これは基本中の基本であって、語彙の多義性ばかりが問題なのではなくて、字引にも載っていない古語や廃語が使われていたり、十六世紀特有の古い用法で書かれていたり、ただ、その字引を隅々まで読まなければならない面倒を面倒と思わず、鑑賞という営為、著者との対話くらいの、動じない気持ちで愉しむという姿勢は、文学一般に応用出来るもので、確かに時間は掛かるけれども、要は、言葉を通じてシェイクスピアと遊ぶことであって、それこそが、契約書の捺印が遅いと言ってイライラする取引先もいなければ、メールの返信を督促するような上司もいない、芸術作品である文学なればこその、ゆったりとした、そして本質的な言葉との付き合い方ではないだろうか。
五十二年の生涯で、四十近い作品を残したシェイクスピアの偉業は、容易に汲み尽くせるものではなくて、だから、外国語を文学鑑賞の為に学びたい向きは、さっさと読解の入門書や参考書など終わらせて、児童書や学習用の読本などで回り道することなく、シェイクスピアの原書を手に取り、その豊饒な言葉の大海へと船を漕ぎ出すべきであって、例を挙げたように、そもそもが台詞として書かれた文章自体は難しくないのだから、なるべく早く、騙されたと思って、若い内から原書に取り組んでみることをお勧めしたい。そして、教育の現場は、自己紹介だとか、名所案内だとか、使いもしないフレーズの復唱に、青春という感受性豊かな時間を費やすことはやめて、言葉が持つ美しさや巧みさの結晶である文学、中でも不滅の金字塔として賞賛されるシェイクスピアに、今一度、眼を向けてみるべきではないだろうか。沙翁の復権、そのことにより一人でも多くの言葉の愛好家を増やし、実用に偏った言語への関心を、文学へと取り戻す処方箋になることを願いたい。
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