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地球を感じ、我を知る旅。

「あいうえおnote」の「ち」は「地球」。

     ・・・・・

毎日が日曜日になってから 生まれて初めて 本当の旅に出た

一度行ってみたかった北海道
どこに行きたい?と 夫に聞かれ
宗谷岬 と 納沙布岬 と私は答えた

「果て」を感じたかったから
「ふるい自分」を捨てたかったから
「何か」を知り
「何か」を見つけたかったから


日本最東端 「納沙布岬」
空は超快晴 風もない
遠くには 択捉の島々が見え 
見てみたかった貝殻島灯台も 肉眼で この眼でとらえられた
ひたすらに 穏やかだった
ただただ真っ青な オホーツクの水平線を眺めた

日本最北端 「宗谷岬」
雨風ともに強く 先端に立つ私は 吹き飛ばされんばかり
海はすぐそこ 2,3歩先にある
まさに 日本の北の突端
ごうごうと 茶色く唸る波を 必死に見つめた
怖かった
腰が引けた 
それでも突端の鉄の矢印にしがみつき
見続けた 必死に見続けた
ここでなら 全てを吹っ切ることができる と思った
その瞬間を 私は 待っていた

稚内 「ノシャップ岬」
宗谷と同じく 海は荒れていた
でも 雲が次第に切れ 遠く利尻の島が見えた

カモメが 見事な空中遊泳
「風にのってるんだなぁ」

私は 思いっきり笑った
夫も 笑った

(☝中央右端が「貝殻島灯台」 なんとか撮ることができた)

晴天の東端 悪天の北端
その対比は 見事だった
自分の人生のようだった 

    

私たちの旅は 車を使わない
電車・バス・自転車・徒歩
どうにも行かれないところのみ タクシー

自分たちの足で 大地を踏み 蹴り
肌で 風と空気を感じる
そして そこで暮らしている人々の生活を 直に感じる

そのことで 日本が 地球の一部であることを
そして その地球が生きていることを 
地球の上で 人々が生き 生活をしていることを
ひしひしと 痛感できる

地球では 地底のマグマが 大地をそれぞれの形に創り出し
今 この時この瞬間も うごめいていることを体感した
絶えず表地は熱せられ 音をたてて蒸気を出す
カルデラ湖の佇まいは かつての地球の怒りを 静かに物語る 

      ・・・・・

北海道の後も 私は自然を感じる旅をしたいと 夫に希望した

人々が多く集まる場所には 関心が向かない
造られた観光地は 私にとっては 意味がない
そこに 私が求めているものは 見当たらない

創られた大地に立つと 
自分がいかにくだらないかを 知ることができる

生きている ということさえ 薄く思える
同時に 残りの生を 少しでも濃く 過ごそうと思える

雨が 雪が 風が
創られた大地を また創り
それぞれの気候に合わせて 変化させる

おこがましくも足を踏み入れた 山の稜線は 険しい 
侮ることのできない自然は
人間なんか 全くちっぽけなのさと 突きつけてくる

大地から湧き出る湯は 信じられないほどに 大胆で
「われ地球は生きている」と 生をもつものに示す

自然の美しさ 雄大さは 余りに圧倒的で
ただ ただ息をのむばかりで

言葉で伝えようなんて 全く無理で
じゃあ 言葉って何なのさ 
言葉で表現なんて たかが知れているんだ と私は萎びる

それでも 今 この目の前に広がる光景を どうにか記憶に刻みたいと
写真に収めつつ 言葉を探す

茫然自失のままでは ただ「過ぎ去る」だけ
それでは 自分のなかに生まれた「何か」も忘れてしまう

それじゃあ ダメなんだよ!
私のなかの あたらしい私が叫ぶ

氷に 切られ

岩に 殴られ

水の流れに 身を任せ

ただひたすらに 道を進む

そのひとつひとつの行程で 感じることができたことを
私は これからの まだ少しは残っている時間のために 
反芻しなければならない

見回せば 可憐な植物が 健気に生きている

ああ その小さな営みを ちゃんと掬い取れるひとになりたい

     ・・・・・

冒頭に戻る。
私は、北海道旅行を経て、

「果て」をしっかりと感じることで、
無事「ふるい自分」を捨て、
「地球の躍動」を知り、
「あたらしい自分という人間」を見つけた。

地球の躍動を、言葉で残すことは難しい。

だけれども、私はそれに挑戦しなければならない、と今は思っている。
それは私自身のためにだ。

夫との毎日の生活で、そして、旅で、思ったこと感じたことを粗末に扱っていたら、それが私の記憶に留まる時間は短い。もうそういう年齢に突入している。
これから先の人生。少しでもより充実した時間を過ごすためには「忘れてはいけないこと、流してはいけないこと」があるのだ。


先日「100文字の世界」の私の投稿で、
「桜は、千鳥ヶ淵のソメイヨシノでもう十分と思っていたけれど、吉野の山の千本桜のあまりの美しさを目にし、そんな私がいかに奢っていたのかを知った」という旨の文章を書いたのだけれど、まさにそういう「奢り」がまだまだ私には巣くっている。

熊野本宮大社を訪れたときのことである。
新宮からバスに乗り、熊野本宮大社前で下車。その後、表門から大社を参拝した。正直、何の感銘も受けることができなかった。
次の日、発心門王子から熊野本宮大社までの熊野古道を歩いた。たかだか8キロの道のりである。
その道は、熊野本宮大社の裏に通じていて、前日とは異なり、裏手から大社を参拝。
まったく趣の違う大社がそこにあった。

何の努力もせずにただ参拝して、何がわかるというのか。
たかだが8キロを歩いただけでも、大社の姿が全く違う。それなら、古今東西、熊野古道を何日もかけて歩いた人が感じる、熊野本宮大社のありがたみは如何ばかりなのかと。

神社での例えであるけれど、このことは、全てのことに通じる。
私には、ひととしてわかっていないことが、まだまだたくさんあるのだ。


自分の人生を、自分なりに納得のいくものとして終わりたい。
最北端の宗谷の岬で、ふるい自分を捨てたから、そういう思いを抱けるように私はなった。
甚だ生意気な願いである。
でも、いいじゃない?めちゃ前向きで、と今は思っている。
だって、希望だから。

そのために、私は「今」を忘れないように、写真と言葉で残す努力をすることにする。(すでに楽しみでしているけれど)

そして、いつの日か、夫の命と自分の命が終わるとき、息子にでも頼んで全てを消去してもらう。
これは、今の私の終活の第一歩だ。

     ・・・・・ end ・・・・・

タイトル画像:和歌山県紀伊大島・樫野崎灯台からの太平洋。

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卯月紫乃
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