【映画評】#2 陪審員2番 ー正義と正しさについてー 2024.12.29 (1731文字)
クリントイーストウッド監督の最新作、陪審員2番を観ました。
初めに
陪審員制度
日本の陪審員制度は、昭和3年から18年までの限られた期間において施行された制度らしいですが、米国では英国流の陪審員制度を今でも運用しているようです。
12人の無作為に選ばれた陪審員が、その12人だけで、裁判所で見聞きした情報だけでその判決を決定する。日本では裁判員制度で、裁判官などの助言があるそうですが、アメリカではそういったものもないそうです。
本作について
ジャスティンケンプという男が、豪雨の中車を運転していると、何かを轢いてしまう。周囲には何もなく、鹿を轢いたと思い込み帰宅する。しかし、陪審員として呼ばれたある裁判で、事実が明らかになっていく。奇妙に交錯する人物たちが織りなす心理劇が見どころの作品だ。
以下感想
徐々にわかってくることだが、主人公は妻の流産にショックを受けて、バーに寄っていただけだった。アルコール中毒だった彼にチャンスをくれた妻のためにも、酒を飲まずに帰る。しかしその道中で作中の裁判での被害者の女性を轢いてしまう。彼はただ悲しみに暮れ、帰ろうとしていただけだったが、タイミング悪く事故を起こした。
被害者の女性のパートナーである男が被疑者として法廷に立たされ、証言によって有罪にされそうになっていた。ケンプはその裁判の陪審員として、罪悪感からか、彼を有罪としてこの裁判を適当に終わらせようとする他の陪審員を説得してまで無罪の可能性を探っていく。決定的な証拠はある老人の目撃証拠だけ。状況として喧嘩別れをした後のことであったから、陪審員も有罪で良いという雰囲気だった。
一方、彼はかつてのアルコール中毒に関連付けられ重罪にされてしまうことを恐れて、本当に彼を無罪にすることが正しいか決めかねている。本来であれば、そのパートナーの男が有罪で、自分にその矛先が向けられることはないのだが、自身の罪悪感による行動で、自身が徐々に追い詰められていく。その緊迫感などが見どころの一つだと思う。
途中、もと警官だった男が勝手に現場検証を行い、ひき逃げの線を追うためのデータなどを手にする。それをケンプと共有するものの、ケンプは決定的に自分を追い込む可能性のあるそのデータをわざと見つかるように落として見せる。そこまでのことを彼にさせるのは理由があった。
それは、過去のアルコール中毒と、妻の献身的なサポート。また、過去の流産と、今回の出産を控えていること。自分が捕まり、重罪を課される可能性と、そのことによって妻や子供に対する損失。彼はどうしても拘留されるわけにはいかなかった。
正義と正しさについて
正義を執行しようとする検察は、正義こそが正しいことであって、事実をあらわにしていくことが正しいと思っている。
実際、彼女にとってはそれが正義であり、その確認作業なのだが、それが自身の出世と絡むことで、誤った判断をさせることになる。目撃証言だけでは、正直に立証することはできないと思うのだが、本作はそれで話が進んでしまい、結局的には冤罪で捕まった被害者のパートナーが刑に処されることになる。
主人公は内心ほっとするものの、実際には何の罪も犯していない人物に自身の罪を被せているという罪悪感がのしかかる。
検事はというと、本当は冤罪だったのではないかという疑念を抱き、またある種の確信を得ながらも、自身の出世のために正義を歪めてその矛先を下ろす。
正義が正しいと思っていた検事にとっては、それが翻って自身の身に起こるとその信条さえ曲げてしまう。主人公と検事の両軸で、この物語は進んでいき、お互いが墓場まで持っていく秘密を共有しているという罪悪感の中で物語は終了する。
最後に
本作はクリント・イーストウッドの巧みな心理描写によって数少ない登場人物と場所や証拠などのパーツをつなぎ合わせている。面白い作品だったが、なにかもう一つ欲しかったというのが本当のところで、冤罪を扱った作品であれば、他作品でも同じような描写があってしかるべきなので、難しいところだと思った。
正義とは一体なんだろうか、正しくあろうとする姿勢とはなんなのだろうか。そういったことを考えたい方は、一見の価値があるのではないかと思いました。