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善きことはカタツムリの速度で
眠気と暑さでショートしかけた意識で、溢れ出る汗を拭い、だるさを残した身体を奮い立たせて、気がつけばもう8月も後半に差し掛かろうとしている。
蚊に刺されないように、日焼けしないように、草負けしないようにと、意識的に羽織っていた長袖のシャツも、堪えきれず結局今日も脱いでしまう。
暑さに観念してあらゆる対策を放棄した肌は、着実に色濃く仕上がっていく。都会に足を伸ばすとちょっと浮きます。
これまで何度も訪れた夏の中でも、「アツい」とつぶやいた独り言の数は過去一のはず。(そして気候沸騰の影響で、つぶやく回数は毎年最多記録を更新し続けると思う)
早朝からお昼までの勤務を終えた後の、午後のお昼寝の時間なんて想像するだけで気持ちいい、、、はずなのに。
何故か昼寝ができない。
実現することなく、想像だけで終わりそうな真夏のシエスタ、、、。
昼寝ができないからといってあちこち繰り出す気にもなれず、かといって家の中で腰を据えて何かに打ち込むための集中力も気力も散漫で、やりたいことはあれもこれも浮かぶのに、結局何もできないまま。
焦りばかりが蓄積されて、さらに滞っていく。
酷暑と消耗と焦りのトライアングルに引き込まれたら最後、中々抜け出せない。
そんなことを、もっと直球な言い方で「昼寝ができない」とか「ずっと、ちょっとだけダルい」とか「何もやってなさすぎて自己肯定感が下がっていく」とか、とにかく周囲の人にこぼし始めたら、「自分に厳しくしすぎなくても、一日5分だけヨガやってみるとか、そういうことでいいんじゃないの」と風穴の開くような一言を食らい、一先ず無事に不毛なループから脱出。言葉に救われるってこういうこと。
取るに足らないと切り捨ててきた日常の小さな生活のかけらが、習慣、意識、人格、そして人生の、あらゆる底辺にあるのだから、ハードルを高くして飛ぶことを諦めては元も子もないと、今まさに布団の中から蜂起している最中です。
昼寝はもう諦めて、寝れない時間に何を始めたかというと、手仕事と音楽と、少しの読書。
虫に喰われたトマトでケチャップを仕込んだり(濃厚で美味すぎる)、しば漬けを寝かせてみたり(観察中)、コンブチャ発酵を再開したり(スコビーが元気に爆発中)。
コモンの仲間と静かに始めた工藝部で、穴の開いた服のダーニングを教えてもらったり(学生以来の針仕事)。
ずっと憧れていたアイリッシュ音楽のフィドルの練習を始めたり(チューニングが全然違うこと、解放弦を積極的に弾くこと。あらゆる技法がバイオリンと違いすぎて、今のところ不安しかない)。
布団の中から蜂起するにしては細かすぎて、きっと誰にも伝わらないけど。手仕事も、音楽も、食べ物を自分たちで育てることも、全ては自己表現に飽き足らず、抗議の方法になり得る。というのが今の信条。
詳しくは、絵本『PROTEST! プロテストってなに?世界を変えたさまざまな社会運動』(アリス&エミリー・ハワース=ブース)にも書いてあるけど、労働者が、女性が、性的マイノリティが、黒人が、市民が、村人が、農民が、先住民が、子どもたちが、暴力に対してさまざまな非暴力の手段を用いて抗ってきた。
土地を耕して植物の種を植えることも、黙って書いたり読んだりすることも、音を鳴らすことも、踊ることも、食べることも、歩くことも、手を繋ぐことも、日常の中に溶け込んだ行為が工夫次第で抗議のツールになる。
一人ではできないことも、みんなでやればできる領域がある。その領域でならば希望を育み、一人ひとりの力を押し上げることができないだろうか。
日常の一挙手一投足に意味や意義を逐一問い詰めてしまって、息が詰まりがちでしたが、長い時間をかけて歴史を変えたクリエイティブな手法を知るほどに、どんなことも未来の布石になるはずだから、カタツムリの速度を諦めちゃいけないと、問いかけられている気がします。