自己責任でなく、相互扶助で生きよう
今日は普段野菜ボックスを定期購入して下さっている皆さんを畑にお招きして、相互扶助論の話。
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政府が社会福祉、教育、公共サービスをどんどん縮小していく中で、自己責任論が今までになく蔓延る世の中。
自己責任論を生存の前提に置いたまま話を進めると、コミュニティ内の人間関係は蔑ろにされ、困った時に助け合う、という考え方は後回しにされる。
自分に購買力さえあれば、災害時や何か困難な状況に直面した時に“自分でなんとかできる”から、言わずとも他人にも同じ考え方を求める。
貧しいのも、生きづらいのも、本人のせい。そういう発想になっている。
でも、貧しさ=弱さではない。
なぜなら、脆弱な私たちは、互いを支え合わずしては生きていけないから。
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日々の生活では、政府や行政の目が行き届かない範囲で、地域ごとに様々な決まりごとやしきたりがある。
コミュニティの中でどのような人間関係が形成されているかによって、衣食住など生活に欠かせない資源のやり取りがなされることがある。
コミュニティで生きていくことは、生存を自分一人の手に委ねるよりも、はるかに強靭だ。
ただし、コミュニティで生きていくには、「自分はコミュニティのために何ができるか」を探し、考え、一人ひとりができることをやらなくてはならない。常に見返りを求めるのでなく、できることをやり、できないときは誰かがやってくれる。そんなふうに、何かあった時に、頼り頼られる集合体に関わることを、私は求めている。
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どんなにハイスペックな個人を目指すことよりも、相互扶助のコミュニティで、できることを考えよう。
社会の人権意識の低さに言葉を失い、理性はもはや失われたのかと極端に悲観したくもなる状況で、未来に希望を見出すことすら難しいけれど、ここで私にできることを考え、頭と身体を働かせれば、せめてマシなどこかに行き着くだろう。
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少し前の自分には無かった発想。
学生の頃から、独りになっても生きていけるように、稼いで資産を増やすこと、頭の良い人になることを無意識に追い求めてきた。誰にも頼らず、スーパーヒューマンになろうだなんて、おこがましいけれど思ったりしていた。
でも、いくら身を粉にして働いても、思っていたほどお金は貯まらないし、理想に思い描いたほど頭も良くなく、したたかでもなかった。したたかに生きられない個人に対する世間の風当たりは、冷たい。
だからマッチョな考え方をもう一度棄てたい。
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さつまいもご飯と冬瓜の味噌汁を、焦りながら作る傍らで、わずかに聞こえてくる会話に耳を傾けながら、そんなことを思った。