私が私になる前に(4)

紗英の表情は意外にも穏やかで、
私の横にゆっくりと腰を掛けて口を開いた。

「今思えば大した理由ではなかったのかもしれない。私は中学2年生の夏頃から、いじめが原因で不登校になったの。保健室経由で早退を繰り返す内に、学校に行くふりして図書館に行く事が増えて、結果的に毎日私服で通う様になった。親も放任というか、一緒にいる時は優しくて『叱る』ということをされた記憶が殆ど無い。休み始めた頃の不安は徐々に薄れていった。君を知ったのはその頃だよ。」

彼女が懐かしむ様に微笑む姿には、
不思議とこれまでに無い高揚を感じた。
頭の中で記憶が整っていく。まるで部屋一面に並ぶ本棚の中から、欲しかった一文を見つけた様な感覚だ。

「中央図書館」
呟く私を、彼女はじっと見つめている。

「小説『春闇と舟』のあとがき」
彼女は姿勢が定まらず、手の置き場を改めて膝の上にした。

「イニシャルの【N.S.】って君のことだったのか」
彼女はゆっくりと黙って頷き、頬を赤らめて私を見つめていた。

私は、中学生の頃に通っていた図書館で、一冊の小説を媒体に文通をしていたことを思い出した。

『春闇と舟』は、無性愛者の男子生徒と同性愛者である男性教師の、卒業までの一年間を綴った長編小説だ。彼らの結末は、決して良いものではなかった。同性を愛していいという安心感と、それが実るとは限らないという現実。言ってしまえば至極当然なことを、歳の差や立場の違いなどより複雑な環境で描くことで、恋という概念そのものが孕む苦しさを味わうにはあらすじだけで十分だった。

私が図書館を使うのは決まって土曜日で、
開館の午前10時から閉館の午後5時まで、
本の虫の様に入り浸っていた。借りることはせず、
読めるだけ読んで手ぶらで帰る。
本というよりは、図書館という空間が好きだった。
『春闇と舟』を手に取った日から、図書館に通う理由は大きく変わる。

あとがきのページには、一枚のメモ用紙が挟まれていた。

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