かろうじての「善さ」を保つ世界の危うさよ/『ブラック・クランズマン』(2019年アカデミー脚色賞/スパイク・リー)
2019年度のノミネート&脚色賞受賞作、『ブラック・クランズマン』を観た。同タイトルのノンフィクション小説の映画化で、1970年代、黒人初の市警巡査となったロンが白人至上主義組織として名高い「KKK」潜入捜査を行うというセンセーショナルな物語。
ユーモアを交えながらテンポよく進むストーリーに、時折差し挟まれる「毒」にドキリとし、それが単なる演出でなく、むき出しの「真実」を描いていることに気づいてまたぞわり、とする。
物語が進むにつれ、その「毒」は、じんわりと全身を浸食していって、時代も立場もかけはなれている(はずの)目を背けたくなる「真実」について、想いを巡らさずにはいられなくなるのだ。
不思議だと思う。
この世界では、かんたんに答えをだせないようなこと=たとえば「愛情」の問題、「人間関係」「家族」の問題などにステレオタイプな”答え”を示し、「人種差別は悪である」という、公正明大な「正しさ」に、『いや、はたして本当にそうだろうか?』という、疑念を抱かせようとする。
自分の目に映っている、疑いようのない真実をねじ曲げてしまう強大で憎悪に満ちたパワーは、たくさんの血を流し、その血がまるでフィクションに思えるくらいに、スイッチひとつでTVを付け消し出来るような手軽さで、さらに多くの命を傷つけ、蔑んでいく。
それは人の世の常であるように、莫大な利益を得る「権力者」たちのプロバガンダなしには成立しえないけれど、同時に「彼らの思惑」だけで成立することはできないほどの、”ピュアな”悪意と憎悪が、利益とも権力とも無関係の人々の心に生まれる理由。
その危うさは、これを書いている私にだってきっと、備わっているものだ。
映画の終わり近く、急進的なKKKメンバーの妻である女性が、プロパガンダ映画に映し出される黒人達にむかって「黒んぼ! サル!!」と絶叫する。恍惚と、目を輝かせながら。
同じ目で、口で、手で、愛する夫には愛をささやき、心を込めて手料理を作る彼女もまた、「時代の犠牲者」のひとりであるのだろうと、思った。
一番印象に残ったのは、(ユダヤ系である)フリップ刑事役のアダム・ドライバーが「親も信心深くなくてユダヤ人として育てられてはこなかったし、帰属意識も殆どなかったのに、(KKKメンバーのユダヤ人差別発言にさらされてから)今は、そのことばかり考えるようになった」
と吐露するシーン。
それは、己のルーツに誇りを持つ、という光の面とともに、「異種なもの」に対する新たな火種になる負の面も、持ってはいないだろうか。
公開当時、おぼろげに世界を包み始めた「危うさ」が今では、はっきりと分かる重さとみなぎる憎悪を持って強く、着実に広がり、新たな絶望や怒りを生んでいる。
それでも、はっきりと姿を取り始めた「悪しきもの」という敵の姿を知ってこそ、見えてくる正しさや立ち上がる希望がある、と信じたい。
何もできない恥ずかしい自分が、せめて無防備な呆けた顔だけはしないよう、かろうじての「善さ」を保つ世界の“こちら側”で、考え続けたい。
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