【時評】異界としての未来、創世の物語──『ザ・クリエイター 創造者』について
(かなり今更感があるが公開当時に書いたものがメモの奥底から発見されたので時評として公開する)
20世紀における、メディアと市場経済の発展は、テクノロジーなるものを工業製品に作り替えた。それは共有され確認され複製される実在として、分かちがたく文明を規定する。今日、テクノロジーは色を、意匠をまとう。工業デザイン、という言葉に代表されるように、製品とは──それが合目的的であろうとそうでなかろうと──ある意匠から独立しては存在しえない。そして意匠のあるところには、必然的に「文化」が生じる。
この映画における技術もまた、そうしたロジックの重力圏に包摂されていた。AIと、それを搭載した模造人間をベースとした意匠の共同体である「ニューアジア」に対して、西側諸国──それはどこまでも「アメリカ」として表象されていた──は、人間を拡張する、モータリゼーションの肥大化としての意匠に規定されている。彼らは後述する「傷」のために終わりなき殲滅戦を繰り広げているが、それは技術同士、兵器同士の闘争である以上に、文化、世界観同士の闘争でもあった。
この映画の舞台は地球、それも西暦2060年代だ。だがそれは、どこまでも異界として映し出され、こちらへと迫ってくる。「アメリカ」として描かれるのは核のクレーターと、残骸の上の商業であり、また、「アジア」として描かれるのは霊的な自然の中に住まう人々の姿だった。
無論、ニューアジアを中心に進行する物語はその後、都市としてのアジアを映し出しはするが、それはどこまでも「いま・ここ」には根拠づけられない景観だ。『ブレードランナー2049』においてドゥニ・ヴィルヌーヴが演出したニューヨークか、あるいは、『攻殻機動隊』において押井守が描き出した汎アジア的な都市(なんと中盤には、『攻殻』序盤の点景のシークエンスのパロディが挟まれる)。そうした実存として、この映画におけるアジア都市はあった。
この二つの世界を分ったものは核爆発だった。核。それは身も蓋もない、絶対的で圧倒的な、現実の、カタストロフをもたらす機能の結晶だ。だがここにおける核爆発とは、そうした現実の影をまとってはいない。先述したように、核が穿ったクレーターの上には、廃品を回収し、高濃度放射能汚染に粛々と対応していく文明が芽吹いた。それはかつての広島・長崎やチェルノブイリのそれとは決定的に異なる、異界の、ファンタジーの表象だ。
とはいえ、そのクレーターは、どこまでもクレーターとして描かれる。圧倒的な断絶──傷として。
その傷によって、二つの文明、二つの世界は終わりなき闘争の泥沼へと沈み込んでいくが、それは現実の冷戦に、というより、『機動戦士ガンダム』の架空年代記に相似している(宇宙移民者の貴族による独立国家ジオンは、宇宙基地を地球に落下させる「コロニー落とし」を敢行し、地球連邦政府との対立を決定的にする)。
主人公は、そうした二つの世界のあわいに投げ出された存在だった。核爆発の衝撃で左腕と足を失った彼は、機械による義肢でそれを補っている。だがその技術は、西側のそれではなく、ロボット工学を根底に持つニューアジア側の文化だ。彼の身体の半分は、彼に対置される世界によって形作られている。そうした身体を連れて、彼はニューアジアでの潜入工作にいそしみ、そこで家族をもうける。模造人間を「現実でない(not real)」とさげすむ一方で、彼はニューアジア的なものに接近していくのだ。
そうした二つの世界を繋ぐ存在として「少女」が存在する。
少女もまた、この映画において「あわい」に立つ人物──模造人間だ。そしてこの物語において、彼女は間違いなく世界の核心に存在する。だが、彼女はあくまでも一つの個体として、一つの存在として振る舞う。彼女がそれ単体で世界を決定づけることはない。世界の核心にあり、それが被るべき宿命を負っていながら、彼女に許されているのは祈ることだけだった。多くの人間が(それは模造人間であってもそうだろう)そうであるように。
創造主。これは、それを巡る物語だ。神を無条件に信じることがかつてないほど難しいこの時代に、それでもなお、人造の神(クリエイター)の可能性を、それがもたらす神話を圧倒的な表象によって描き出し、祈りによって閉じること。それこそが、ここで選び取られた表現だったのだろう。
かつて『マトリックス』は聖書や『ふしぎの国のアリス』などを援用し、救世主の物語を語った。それは伊藤計劃風に言うなら「神亡き時代の神」をめぐる物語だった。
そして今、『ザ・クリエイター』は同じ──否、それ以上に精緻な世界を、霊的な物語を紡いでいる。そのような映画として、これは存在する。