城輪アズサ

時評や論評を上げていきます。

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最近の記事

【エッセー】近況、某、月明かり

 バイトをクビになった。コンビニだった。本決まりになった瞬間の動揺はわりあい小さかったのだが、家に帰って来てから何も手につかなかったので、これはそれなりに自分の中で大きい出来事だったのかもしれない。  そういうわけで、透明になった僕はサブスク(YouTubeMusicだ)で『だから僕は音楽を辞めた』を通して聴いていた。ほぼ何もせずに通しで聴いていたあたり、作業と並行しなかったあたりに動揺の深さが表れていたような気がするが、単に疲労していただけかもしれない。神戸の気温は昨

    • 『救済のパラフレゾロジー』感想

      まえおき  昨日、「ごくごくインディーな批評サイト」週末批評において、映画『きみの色』にまつわる批評、『救済のパラフレゾロジー──長崎、京アニ、きみの色』(https://worldend-critic.com/2024/09/20/paraphrasology-kiminoiro-teramat/)が公開された。  同論考を執筆したのはサイト管理人である「てらまっと(@teramatt)」氏である。同氏は活動の初期からアニメ会社「京都アニメーション」の作品、とりわけ山田

      • 【エッセー】コピーのための批評──戦略としての「存在論的、広告的」

         東浩紀『郵便的不安たちβ』(河出文庫)を読んでいた。これは1991年の『ソルジェニーツィン試論』から始まり、1998年の『存在論的、郵便的』(通称「郵便本」)を経由し、21世紀初頭に至るまでのさまざまな仕事を集成したもので、『動物化するポストモダン』もとい波状言論・網状言論的なものが生まれるまでの経過が断片的に把握できる一冊となっていたが、その中でもとりわけ目を引いたのが「存在論的、広告的」と題された連載コラムの段だった。  同コラムは90年代の文化状況を概観することから

        • 【時評】魚群、ユートピアのパロディ──『きみの色』をめぐって

           バベルの塔。旧約聖書におけるその建造と崩落の伝説は、ひとつの説話として、絶えず西暦に、西暦内の文化史に現れたものであった。  大破局にかかわる伝説、こう言ってよければある種の「説話」は多い。大洪水や最後の審判などはその典型である。しかしバベルの塔がそれらと明瞭に異なるのは、そこで崩落するのが人間の築き上げたもの、理性と叡智の象徴であり、都市であるという点である、というのは美術史家の谷川渥の指摘するところだ(『廃墟の美学』)。とはいえ、この説話がわれわれにとって重要なのは

        【エッセー】近況、某、月明かり

          【コラム】円環と伝達──鈴木光司『らせん』読書ノート

           情報としての身体。『らせん』はそのようなモチーフに貫かれている。  無論、身体(corps)とはたぶんに物体(corps)でもある。しかし二重らせんの表象──遺伝子/DNAを前に、身体は情報へと還元されうるものとして立ち現れざるをえない。以下に展開するのは、『らせん』の物語構造を、そうした観点から素描し、批評的契機を抉出する試みである。 ●  本作の物語は序盤、象徴的なシークエンスから転がり始める。監察医である主人公:安藤が、死んだ友人:高山竜司を解剖する一幕である。

          【コラム】円環と伝達──鈴木光司『らせん』読書ノート

          「日本的身体の土壌と超越──いま・ここの『ひかりごけ』論のために」

          ●  以下、武田泰淳『ひかりごけ』、およびその主題にまつわるいくつかのはしりがきを、断章形式でもって編纂し配置する。その漠としたテクストの連なりは一つの論理的秩序を析出するかもしれないし、またしないかもしれない。思弁の廃墟。参照の廃墟。そのようなものとしてこの記事は存在することになるかもしれない。 ●  批評集団「大失敗」のはてなブログ。しげのかいり・佐藤青の共同執筆記事に「加速主義と日本的身体──柄谷行人から出発して」というものがある。ここでは日本という言語空間(とり

          「日本的身体の土壌と超越──いま・ここの『ひかりごけ』論のために」

          【コラム】「上京」の詩学──崎山蒼志《季節外れ》にまつわるいくつかのこと

          はしがき  「上京」というのは、文学の主要なテーマの一つだ。田舎から都会へ、閉鎖から開放へ。無論それは文学に限った話ではなく、あらゆる創作物に見られる類型、というより原風景としてある。  シンガーソングライターの崎山蒼志はそのような風景をしばしば作品に反映させてきた作り手だった。とりわけEP『嘘じゃない Special Edition』(デジタル限定盤)に収録された《季節外れ》には、そうしたテーマが色濃い。  とはいえ、そこで持ち出された言葉それ自体は「上京」ではなかっ

          【コラム】「上京」の詩学──崎山蒼志《季節外れ》にまつわるいくつかのこと

          【エッセー】透明の歌について

           ここ最近、繰り返し聴いているボカロPがいる。rinri。あえて代表的な、というか広く知られているであろう曲を挙げて説明を付するなら《僕らの記憶を掠わないで》(鳴花ヒメ・鳴花ミコト)のひとである。  本曲の痛切さ、感傷性の間隙から顔を覗かせる痛みの気配と、全体を覆う喪失の気配は、同時代的でありながら、どこか決定的に新綺であるように思う。そこにあるのはスタイルとしての青春や、スタイルとしての郊外(田舎?)や、スタイルとしての感傷ではない。本当にそんな「パターン化された」コンテ

          【エッセー】透明の歌について

          【エッセー】2024.8.3

           ジョージ・オーウェルのエッセーの中で『思いつくままに』が一番好きだった時期がある。今では『1984年』読解のうえで重要な『あなたと原爆』とか『マラケシュ』とかになるかもしれないが、とにかく何年か前の僕はそうではなかった。  『思いつくままに』はサー・ウォルター・ローリーの歴史記述にまつわる話から始まる。無論誰かは当時まったく分からなかったし、今でもよくは分かっていないのだが、こうした出だしが余計に嬉しかった。僕は明らかに、そこに「洗練」を見出していた。そういえば、他ならぬ

          【エッセー】2024.8.3

          【コラム】『ツイ天』読書会から──異教の神、あるいは「日本の天使」の沈黙についてのおぼえがき

           2024年7月21日。SNS「X」において、一つのスペース(音声交流)が行われた。それはかつててらまっと氏によって発表された論考『ツインテールの天使』──〈日常系〉アニメ、あるいはポスト3・11の風景についてのもの──を、著者を交えながら読むというもので、5時間以上におよぶ長丁場の、しかし充実した会となった。  そうした会であるため、議論は時に論考自体から離れて多岐にわたったが、その中でも、とりわけ重要だと思われるのは、日本的空間と「天使」の所在・起源をめぐる一連のやり取

          【コラム】『ツイ天』読書会から──異教の神、あるいは「日本の天使」の沈黙についてのおぼえがき

          【コラム】電脳少女の夢──「キャラ萌え」についてのおぼえがき

          はじめに  萌え、という言葉。ゼロ年代以降広く人口に膾炙し、オタクという実存の寓意でありつづけてきたこの言葉は、根底的翻訳が不可能なものとして、今日に至るまでとどめ置かれてきた。  そしてその状況は、「萌え」がかつてのような、特権的位置(少数者としての「オタク」による寡占)を剥奪された後にあっても同様だろう。大文字の「オタク」という存在が究極的にそうであるように、萌えもまた、巨大な謎として生起し、消費され、そして消失していくのだろう、という予感。それは強い実感としてある。

          【コラム】電脳少女の夢──「キャラ萌え」についてのおぼえがき

          亡霊、ひび割れたイノセンス──『ガールズバンドクライ』のために

          はじめに  本記事ではアニメ『ガールズバンドクライ』の物語・表象分析を通じて、それが胚胎していた可能性を描出する。  それはさらに、追懐としても機能する。過ぎ去ってしまったすべてのもの。失われてしまったすべてのもの。いつかの放課後、いつかの曇天、いつかの夢、いつかの失望、いつかの敗北。そうした一切にまつわる感傷を精緻に再構成し、しかるのちに解体・葬送すること。奇蹟からも破局からも疎外されたどこか・だれかのためのテクスト。そのようなものとして、これはある。 Ⅰ「井芹仁菜

          亡霊、ひび割れたイノセンス──『ガールズバンドクライ』のために

          【コラム】ブログカルチャーと人文学についての雑感

           ブログカルチャーのゆくえについて考えている。あるいは、かつて存在した(と思われる)ブログカルチャーが胚胎していた可能性を。  既存の流通ネットワークのオルタナティヴとしてのブログ。商業出版の世界からは立ち上がりようもない言葉を掬い上げ、しかるべき場所・ 人に配送するシステム。そう書いたとき、われわれは東浩紀の名を思い起こすかもしれない。網状言論・波状言論。彼とその追想者たちが行っていた活動。そこに累積しているテクストの大半は、すでに読むことの困難なものとしてあるが、それは

          【コラム】ブログカルチャーと人文学についての雑感

          【エッセー】河原木桃香はOrangestarを聴いていたのか?──『ガールズバンドクライ』と初夏の追想

          1.近接するノスタルジー  河原木桃香。2004年生まれ、20歳。バンド:トゲナシトゲアリのギター。無論、それら言葉の連なりが指し示すのは、複数のクリエイターによって形成され、絶えず更新され続ける幻像──有り体に言えば「設定」だ。しかしそれゆえに、その存在は一つの切実さをもってわれわれに迫る。  2004年に生まれるということ。それはゼロ年代に生まれるということであり、そして2010年代(テン年代)の文化環境において思春期を送るということである。その点に関して、この一連

          【エッセー】河原木桃香はOrangestarを聴いていたのか?──『ガールズバンドクライ』と初夏の追想

          【時評】声と絶滅、あるいはわれわれの客観的真実について──『関心領域』の〈内〉のために

           監視カメラ。それは「のぞき穴」として、特異な位置から現実を観測し、平面に再配置する。固定された、限定されたまなざしが、一つの映像を織りなす。──と、そこで疑問が生じてくる。果たして、監視カメラによって作られた映像は「作品」たりえるだろうか。  無数のカメラ──その直線的なまなざし──のショットの連鎖によって、それを接続させることによって、映画(=作品)は成り立つ。その際、視点は剪定され、結果として画面には単一の結果だけが残る。映し出される画面は、否応のない、固有のものとし

          【時評】声と絶滅、あるいはわれわれの客観的真実について──『関心領域』の〈内〉のために

          【日記】悪の彼方へ/デストラクションをめぐって

          ・24.6.7-①  神戸三宮駅を抜けると、そこはパチンコ屋であった。  都心の、針金細工のように入り組んで天を衝くように伸びる諸々の建築たち。その合間にその風景はあった。それ自体に驚きはない。僕の心を捉えたのはそこから流れ出てきていた音楽だった。  Adoの《唱》。昨年何度となく聴いたポップスだ。紅白歌合戦で歌われていた記憶がある。自分から進んで聴くことはなかったが、「目蓋を持たない耳」に、それはほとんど酸素のように飛び込んできていた。その記憶がある。  だからそ

          【日記】悪の彼方へ/デストラクションをめぐって