『救済のパラフレゾロジー』感想
まえおき
昨日、「ごくごくインディーな批評サイト」週末批評において、映画『きみの色』にまつわる批評、『救済のパラフレゾロジー──長崎、京アニ、きみの色』(https://worldend-critic.com/2024/09/20/paraphrasology-kiminoiro-teramat/)が公開された。
同論考を執筆したのはサイト管理人である「てらまっと(@teramatt)」氏である。同氏は活動の初期からアニメ会社「京都アニメーション」の作品、とりわけ山田尚子・吉田玲子などの特定のクリエイターに関する批評を連ねており、『きみの色』を取り扱った『救済のパラフレゾロジー』もその系譜に属する。
端的に言って、同論考は最も強度のある『きみの色』評である。そうであるばかりか、方法論のレベルにおいて、アニメを批評するという行為そのものを更新してさえいるように思う。
とはいえ、これはXに投稿するにはあまりに長すぎる感想の連なりをまとめた記事なので、ここでそれを効果的に示すことはできない。しかし本批評をもって「なにか」が決定的に変わるということは十分にありうる。それだけの迫力をもった批評であったことはここに記しておきたかった。
歴史と個人・外在と内在
前半において最も重要なのは、たぶん序盤に出てきた「抵抗」と「内面化」の話で、これはいわゆる外在的な批評の手管、つまり社会的・歴史的、あるいは政治的・経済的現実からコンテンツを読み解く手管(従属、でもあるだろう)を、内在の圏域、つまり「個」のレベル、個々の「コンテンツ」のレベルに接続させるための語用であるように見えた。内在的なもの、すなわち閉じたものを検討するためには、外在的なものとの間に生じる抵抗(それは絶対的な抵抗ではなく、躊躇いを促す心の声に代表される相対的な抵抗でもある)を検討する必要がある、と。
ここ(『救済のパラフレゾロジー』)において召喚されたのは歴史だった。個人が歴史の壁に触れるときに感じる抵抗とは、ある種内面的な抵抗でもあるだろう。歴史とは、すなわち生ける諸個人でもある。われわれの「内」に歴史は息づいていて、それは「触れ」られるものであると同時に、自己-感覚としてのみ検討が可能な内面的・内在的な問題でもあるはずで、そうした「歴史」の問題に本批評はきわめて精彩に挑みかかっていたように見えた。
間奏:方法論
『ツインテールの天使』から、てらまっと氏の批評を特徴づけていたのはこうした外在的批評のスケールと内在的批評のスケールの緊張関係であり、決してどちらか一方を捨象することのない誠実さだったのではないか。社会的強度がなければ批評のメッセージは内に閉じてどこにも届かないが、意匠や物語そのものにかかわる内実がなければ批評は空疎になる。そうした問題への応答として(無論僕が勝手に言っているだけだが)、これは果てしなく精緻に見える。
改めて、救済について
そして後半において、それは実践へと変転する。ここで重要なのは、はっきりと言明されるように、それが現実の書き換え(=訂正)ではなく認識の書き換えであるという点であるはずだ。ニーバーの言葉であり映画の主題でもある「変えることのできないもの」(≒絶対者)は、ここまでに述べてきた相対的抵抗、内面にかかわる抵抗において立ち現れるものでもある。ある政治的態度において、内面・認識はただちに外的現実へと結びついてしまうが、「受容」はそうした結びつき(=コミットメント?)においては果たされ得ない。本批評はそのように主張するかにみえる。
絶対者の問題は同時にわれわれの問題でもある。そして絶対者とわれわれが向き合うときのあの圧倒的な孤独に、本批評は到達し、しかるのちに救済へと道を開いている。それは外在に短絡することでも、内在に居直ることでも果たし得ない、しかしたしかな批評の可能性の提示であるはずだ。
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