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【時評】血と嘲笑──北野武『首』によせて

 まごうかたなき喜劇。たぶんそれだけが、唯一この映画に対して断言できることだろう。
 舞台となる戦国時代、それも本能寺の変とその後の展開にまつわる一連の事態は、すでに多くの創作が題材としてきたものだ。そこには恐らくコメディーもあるだろう。だからこの映画はある種のジャンル映画として受容することもできるはずだ。
 けれどこれは決して、ジャンルという言葉のもつ記号性に回収されることのない映画だった。これは絶えず喜劇であらんとするシットコムでも、絶えず悲劇であろうとする大作邦画でも、そうした対立そのものを無化せしめんとする無機質な(それゆえに映画的な快楽に満ちた)政治劇でもない。ここにあるのは、喜劇や悲劇といった物語上のリアリティーラインがゆるやかに解けた後の風景だ。ジャンルそのものを嘲笑し解体し、その荒野に残った何ものかを提示すること。それこそが、この映画という営みだったように思う。

 喜劇。それは常に、逸脱の秩序の中から析出する物語の様式だった。芸事なるものは常に自然な現実それ自体の強固さによって成り立つ。強固な現実の秩序に踏みとどまりながら、その逸脱との絶対的な距離を確認すること。その排除のロジックこそが、芸事を芸事たらしめ、喜劇を喜劇たらしめるものだった。
 この映画を規定する喜劇性はしかし、そうした性格を抱え込んではいない。それは自然からの逸脱──不自然なるものの排除によって成り立つものではなかった。この映画における喜劇は、物語というそれ自体強固な秩序にならざるをえない構造体から隔絶したものではない。それはどこまでも秩序的な、自然な時間的連続の中に組み入れられ、演じられる。
 倫理が倫理として、権利が権利として機能しない時代の残虐性をいま・ここにおいて描き出す時、そこには悲劇性が避けがたく付随する。それは時代(SCENE)のもつ宿命性への絶望や陶酔をもたらすものではあるが、そうしたインモラルな快感は広く人口に膾炙しない類のものでしかない。悲劇を悲劇として受容できることはそれ自体ある種の(不健康ではあるが)特権だ。それを持たぬものたちにとって、悲劇とは生理的な(映画的な)快感には結びつかないものであり、なればこそ政治的な、無機質な事実認識が拵られることになる。死を数字として、単なる情報として扱うこと。ある事件・事態を、合理的な意思の実現として扱うこと。そうした快感の形が拵られることになる。
 しかしこの映画が解体したものとはまさにそこだった。政治的な領域における無機質さを徹底的に解体すること。歴史なるものをどこまでも生の人間の蠢きによって表現すること。欠損を欠損として表現すること。
 そうした過程の先に立ち現れてくるのは、喜劇と悲劇がその境界を失った、漠とした映画的時空間の広がりだった。皮膚が突き破られ、肉がかき回され、骨が砕ける。身体が身体たる根拠を失い、首が欠損する。そうしたゴアな表象と地続きのものとして喜劇が演じられること。境目のない物語。異界に逃げ込むことも、無機質な事実認識の中で意識を麻痺させることも不可能な時間の中に自己を投企することを、この映画は可能にし、また要請する。
 喜劇がそうであるように、愛もまた、この映画においてはそうした両価的な形をとる。この映画における愛は、憎悪と不可分のものとして描かれ、その境界はゆるやかに溶けている。
 この映画には男色の武士が多数登場し、その情欲によって物語が駆動する。それは主題として取り扱われる状況(戦国時代)の政治性それ自体が、人の蠢き以上ではありえないという、先述した反悲劇のテーゼに根差したものであるようにも見えるが、それはしかし、単なる情欲としては活写されない。愛の極限において、登場人物たちはその暴力性を露わにするからだ。殴り、斬り、なぶる。そうした運動がすべて、愛と地続きのものとして演じられること。愛へと回収され、再び暴力へと統合されること。
 どこからが喜劇で、どこからが悲劇なのか。
どこからが愛で、どこからが憎悪なのか。そうした逡巡をよそに映画は展開していく。それはあまりに自然で滑らかであり、その意味で凄まじさとは無縁であるようにも思う。そのつつがなさ、その奇妙さ。
 そうした時間の形を体感できる映画として、これは存在する。

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